王様だってスミレの花はおれと同じように匂うだろう。小田島雄志

Ⅳ 王様だってスミレの花はおれと同じように匂うだろう。
             (ヘンリー五世 四幕一場106行)
   The violet smells to him(the King)as it doth to me.


 これも僕の大好きなせりふです。『ヘンリー五世』というのは、日本ではあまり上演されませんけれども、イギリス人は大好きです。なぜかというと、クイーンを別として、イギリス人の好きな王様ベストテンを選べば、ヘンリー五世が一番じゃないかと思います。エリザベス女王とか、ヴィクトリア女王とか女王様には人気者がたくさんいますが、キングで言えばこの人なのです。
 その理由のひとつは、例の百年戦争で、フランスを完膚なきまでにやっつけた王様だからで、イギリス人にとっては、こんな嬉しい王様はいません。ついでに言うと、百年戦争当時、フランスでの一番の人気者はジャンヌ・ダルクでしょう。シェイクスピアも、彼女について書いています。『ヘンリー六世』という芝居です。これはイギリス人にとっては、もうこんなけしからんやつはいないので、シェイクスピアもこの乙女のジャンヌを、悪霊を呼び出す魔女として書いています。オルレアンにいらっしゃった方はご存じでしょうが、町を歩いていると、あちこちにジャンヌ・ダルクの銅像や壁にはレリーフがあったりするので、以前、同行した週刊誌の記者が、「この町はジャンヌだらけの町ですな」と言いました。先に言われたなという気がしましたが確かにその通りで、そこにあるジャンヌ・ダルクの記念館へ入ってみたら、ヘンリー五世と、トーボットという、イギリス軍の名将軍二人の、いわゆるポンチ絵というか風刺漫画のように非常に矮小化された絵がありました。ですから、フランス人にとっては、ヘンリー五世というのは大嫌いでしょうね。
 このようにフランスとの戦いでの英雄ということがひとつ、それからもうひとつ、彼の父親であるヘンリー四世の時代にすでに、ハル・レジェンド(ハルはヘンリーの愛称)、いわゆるハル伝説というものがありました。それは何かというと、彼は皇太子のくせにもう悪いことを何でもやっているのです。サー・ジョン・フォールスタッフという愉快な人物と共に、居酒屋で飲んだくれ、果ては追いはぎ、強盗に加わったり、もう悪事を散々やっています。そして、当時のある偉い男に捕まって、牢獄に入れられてしまいます。そしてさらに、シェイクスピアが書いているのですが、ヘンリー四世が死んで、ヘンリー五世になった時に、その牢獄にほうりこんだ当人で、今の法務長官みたいな男を呼び出します。彼はきっと首になるなと思ったら、王様が「あなたを私の父と思うぞ。これからも私に間違ったことがあったら、厳しく言ってくれ」と言って重用します。こういうのをイギリス人は好きなのです。
 だからヘンリー五世のような、今の皇太子など、もう本当に問題にならないほどのやんちゃな皇太子が名君になって、アジンコートの戦い、フランス読みでアザンクールの戦いのように、四倍から六倍のフランス軍を、完膚なきまでにやっつける。シェイクスピアだと、フランス軍を十二倍くらいにしていたかな。そして結局大勝利を収めて、フランスの王女と結婚することで和解します。こういうヘンリー五世のような王様をイギリス人は大好きなんです。
 今言った、このアジンコートの戦いで大勝利を収めるけれども、この戦いの前夜は、イギリス軍は意気阻喪しています。連戦、連戦で疲れ果てて、もう武器もがたがたになった。そこで、フランスの新手の、シェイクスピアだと十二倍の敵と対戦することになった。正確にはどうだったのか。五千とか六万とか、シェイクスピアは数字をちゃんと挙げています。
 その前夜にヘンリー五世が、一兵卒に変装して陣中を見回っていると、兵隊どもが輪になって、しゃべっているところに行き合います。自分たちは疲れ果てているし、敵は十二倍だ。だから明日の戦いは勝ち目がないと、誰か王様に進言すればいいのにと、兵隊の一人が言います。それを聞きとがめ、変装したヘンリー五世が、「いや、それは言うべきではないと思う」と言います。兵隊が「なぜなんだ」と聞くと、ヘンリー五世は答えます。「王様だってスミレの花はおれと同じように匂うだろう」と。
 でもすでに、観客は彼が王様だって知っています。だから当然、王様だってスミレの花がおれと同じように匂うと言うのも、観客は知っているけれども、ここは一般化して、受けとることにしましょう。スミレの花というのは、王様にだけいい香りを放って、一般庶民には匂ってやらないなんてことはしませんからね。さらに続けて「王様だって、青い空はおれと同じように青く見えるだろう」、つまり、王様だって人間だ、だから、明日の戦いに勝ち目がないぞと言って、怖がる理由を与えたら、王様だって怖がる。しかし、王様というものは全軍の士気に影響するから本当に怖がらせちゃいけないと言っているのです。
 これは芝居として見ると非常に面白いせりふだけれども、それを抜きにしても、我々はやはり、身分とか肩書きとかにとらわれることが多いけれども、そういうものにとらわれないで自由に見たら、王様だって庶民だって同じだという考え、これがシェイクスピアの人間観の根底にあります。
 例えば、『冬物語』──『冬の夜話』と逍遥さん(坪内逍遥)が訳していた──この芝居でも、本来はシチリアの王女だったのに捨てられて、ボヘミアの羊飼いの娘として育ったパーディタ。彼女は王家の血を受けているので、鄙にはまれな美少女に育っているわけですね。ボヘミアの王子が、鷹狩の途中でこの娘を見て、一目惚れします。
 ところが、王子が羊飼いの娘に惚れたのでは、父の王様としては困るわけです。それで、変装して、パーディタが祭りの女王になっている毛狩り祭りに出かけます。すると王子もそこにいて、二人はもうかりそめだけれども、結婚の式を挙げようみたいなことを言っている。そこで変装していた王が怒り出して、変装をかなぐり捨てて、息子とその羊飼いの娘パーディタを叱りつけるわけですね。お前は王子と知って近づいた、金が目当てかとまで言います。
 じっとそれに耐えていたパーディタが、王様が去った後、「私、王様に叱られてもちっとも怖くなかった。だって、王様の豪華な宮殿を照らすおてんとう様は、私たち貧しい羊飼いの上をも照らしてくださるのですもの」と言います。これと同じです。つまり、スミレの花とか、おてんとう様から見たら、王様とか、羊飼いとか、区別しません。人間は皆同じです。これもずっと引いて見ると、そういうことがわかります。身分、肩書きにとらわれていては見えないものが、見えてくるというこでしょうね。
 実は先日、平幹二朗という役者が私の翻訳の『冬物語』の再演のため、まもなく全国ツアーに出て、東京には六月くらいにならないと戻らないと言うのでこの間ちょっと通し稽古を見に行きましたら、これが非常にいい出来になっていたので、今思い出しましたところです。
 これに限りません。シェイクスピアのいろんな芝居に、この引いて見る目で見たら人間みんな同じだというのは、いろんな形で出てきています。

*****
「明日の戦いは勝ち目がないと、誰か王様に進言すればいいのに。」
「王様だってスミレの花はおれと同じように匂うだろう。」
「王様だって、青い空はおれと同じように青く見えるだろう。」
王様だって人間だ、だから、明日の戦いに勝ち目がないぞと言って、
怖がる理由を与えたら、王様だって怖がる。
しかし、王様というものは全軍の士気に影響するから
本当に怖がらせちゃいけないと言っているのです。

というわけだ。

人間は皆同じです。
これもずっと引いて見ると、そういうことがわかります。
身分、肩書きにとらわれていては見えないものが、
見えてくるということでしょうね。

と語っている。
立場を過剰に考えて、
過剰にプラスにもマイナスにも考える。

不思議なものだ。
なぜ目は曇ってしまうのか。

悲劇を通過して、やっと雲が晴れる。

霧の中、雲の中を歩いているのが人生で、
澄み切ったときには終わりなのかもしれない。

生きているうちは霧の中なのだろう。

客観という観はないのだろう。

*****
「お前は王子と知って近づいた、金が目当てかとまで言います。」

これも聞き覚えのあるせりふである。
古今東西愚か者は同じ言葉を口にする。
そして同じ運命を歩む。

「私、王様に叱られてもちっとも怖くなかった。
だって、王様の豪華な宮殿を照らすおてんとう様は、
私たち貧しい羊飼いの上をも照らしてくださるのですもの」

その通り。おてんとう様があれば、それでいい。

金があると
他人に「金が目当てか」と言い
すべてをぶち壊しにする
覆水盆に返らずである。

一節を引用すると、

妻は復縁を求めてきた。
呂尚は盆の水を地面にこぼし、
「この水を元に戻せたならば、復縁に応じよう」と言った。
しかし、馬氏が手ですくえたのは泥ばかりで、水はすくえなかった。

覆水盆に返らず

取り返しのつかないことが世の中にはある

王子と女がけんかをするなら夫婦のことだ
取り返しがつくこともある
王子の親にそんなことを言われたのでは
まったく「しらけて」しまう

しらけた果てにセックスしようとすると
親の顔が浮かんでしまい
何をどうしてもいやになってしまうものだ

パーディタは偉いもので、しらけていないようだ。
女性だからだろうか。
愛があったからだろうか。
それとも、相手が本当の王子だったから?

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引いて見る目で見たら人間みんな同じだ
というのは空間的な言い方で
時間的な言い方をすると
末期の目と言えるだろう。
死んで行くものの目にはすべてが美しく、
すべてが祝福である。
死肉をついばむカラスの様子も懐かしいこの世である。
嫉妬にのた打ち回るこの世の様もまた懐かしい手触りである。

老人にはそういう楽しみもある。