顔を見て人の心のありようを知るすべはない。小田島 雄志

Ⅱ 顔を見て人の心のありようを知るすべはない。
               (マクベス 一幕四場12行)
There's no art to find the mind's construction in the face.

 これを言ったのはダンカンという王様です。彼は、温厚篤実で立派な名君です。しかし反乱があって、非常に立派な忠義の臣と思っていたコーダーの領主が、その中に加わっていたということで、自分を裏切ったと。そこで、このせりふを言うのです。あの男だけは間違いなく、忠義の臣と思っていたのにと、このせりふを言ったところに、マクベスとバンクォーが登場します。
 いとこでもあるダンカンは、身内ながらあっぱれな男を持って嬉しいぞと言って、マクベスを抱きしめてしまう。でも、観客は、すでに魔女に出会って、王殺しを決意しているマクベスを知っているわけです。つまり、ダンカンは「顔を見て人の心のありようを知るすべはない」と言ったとたん、それを立証するように自分を殺そうと思っているマクベスの顔を見て、心のありようを知るすべがなく、抱きしめてしまいます。
 これはシェイクスピアが劇作法としてよく使う手です。術語で言うと、ドラマティック・アイロニーと言い、劇的皮肉という要するに、劇中人物が意識する以上、自覚する以上の意味のせりふを言ってしまう。これをドラマティック・アイロニーと言います。
 ダンカンからすれば、あくまでコーダーの領主が裏切ったという思い。非常に忠義面していたのにというその思いのたけを言ったのが、マクベスにもあてはまってしまった。ここには観客というものの存在があるから、これが非常に劇的な意味を持ちます。観客からすれば、自分が優位に立つという言い方はおかしいけれども、自分はダンカン以上に知っている。あいつはお前を殺そうと思っているんだぞという思い。さっきお前の言ったせりふが、そのまま実証されたなというように、観客が思えるので、こういうところはシェイクスピア、劇作家としては非常にうまい作家です。
 もちろん、「顔を見て人の心のありようを知るすべはない」これだけを見ますと、見た目にとらわれていると見えないものも、一歩引いて見たら、心が見えるということがあるわけです。実は、シェイクスピアは悲劇、喜劇、歴史劇、いろんなスタイルの芝居を書いていますが、どんな芝居にもこういう人間観が出てきます。シェイクスピア学者はこれを、アピアランスとリアリティのテーマという言い方をします。見せ掛け、仮象と真実というか、本当の姿と、見せ掛けとは、人間、違っていて、この谷間に落ち込むのが、悲劇です。ご存じの話で言えば、例えば『リア王』がそうです。王が娘たちの真実の姿を見損なって、表面だけを見て、長女、次女を信じ、三女、コーディーリアを疑ったために起こる悲劇です。
 だが、一方では、そのアピアランスとリアリティの違いを利用して、ハッピーエンドにいく手もシェイクスピアの喜劇にはよくあります。『ヴェニスの商人』とか、あるいは『お気に召すまま』『十二夜』といった芝居だと、ヒロインが男装する。女が男装して恋人の心をぐっとつかんでしまう、男装して男の心をつかまえておいて、実は私だったのよというので、ハッピーエンドにもっていく。これは明らかにアピアランス、男と見せかけ、本当は女だったという、そういう喜劇もあります。
 いずれにしろ、見せ掛けと真実というのは、シェイクスピアのどんな作品にも必ず繰り返し出てきます。その中に、例えば「顔を見て人の心のありようを知るすべはない」という、このダンカンのせりふも出てくるわけです。

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「顔を見て人の心のありようを知るすべはない。」と思って絶望しているところにマクベスが来て、
この男だけは大丈夫信用できると思って抱きしめる。マクベスはやがて自分を殺す男。
そのとき観客の心にはまさに「顔を見て人の心のありようを知るすべはない。」と響いているわけで、
実にすばらしいドラマティック・アイロニーであり、
さすがにシェイクスピアである。

このようにくっきりと切り取る小田島先生の腕も見事。

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「アピアランスとリアリティのテーマという言い方をします。見せ掛け、仮象と真実というか、本当の姿と、見せ掛けとは、人間、違っていて、この谷間に落ち込むのが、悲劇です。」

実に、われわれ臨床の場に生きる者は
アピアランスとリアリティの谷間に落ち込んでいるのであって、
産業医の先生や現場の上司のつらい立場も重々承知しているつもりなのである。
さんざん文句をつけられてきた。

しかし立場を変えてみれば、
やはり誰もがアピアランスとリアリティの谷間に落ち込むもので、
この通り、シェイクスピア先生が語っているのである。

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リアリティは不可知である、
知りうるものはアピアランスであるとの立場がある。
そうだと思う。

しかし一方で、リアリティそのものを「超越論的に」知ることができるとする、
わけが分からず、理屈にもなっていないが、
「人間同士だから分かるのだ」という言い方も
分かる部分があるのである。

自分でも何を言っているのか定かではないが。