「石狩挽歌」なかにし礼

「石狩挽歌」
なかにし礼作詞・浜圭介作曲/昭和50年

海猫【ごめ】が鳴くから ニシンが来ると
赤い筒袖【つっぽ】の やん衆がさわぐ

ニシンの回遊は郡来【くき】と呼ばれ、群で日本海を回遊しています。
その群にカモメが付いて回ったので、カモメが大群で見えると郡来がやってくるのがわかったという。
やん衆は東北から4月-7月頃にかけて出稼ぎに来ていた漁師達で、赤い筒袖とは綿入れ半天のようなもの。

雪に埋もれた 番屋【ばんや】の隅で
わたしゃ夜通し 飯を炊く

番屋は海岸に作った大きな住宅兼作業所で、ニシンを陸揚げし、大鍋で煮上げて絞り、畑の肥料となるニシン粕を作っていました。
ニシン曇りの日、夕方から浜には篝火が焚かれ、網元、船頭、やん衆、飯炊きの女達もじっと沖を見つめて群来を待つ。

ニシンが回遊してくると海面が盛り上がり、ニシンの銀鱗が跳ね上がった。
自分たちの建網に入るのを期待し【入れ、入れ】と祈るように叫んだのでしょう。
一度郡来が来ると、何昼夜にわたり寝る暇も、食べる暇もなく処理作業にかかり切った。
そのやん衆達に炊き出しの飯を作る、飯炊き女達も夜通しとなりました。

あれからニシンは
どこへ行ったやら

破れた網は 問い刺し網か
今じゃ浜辺で オンボロロ
オンボロボロロー

昭和29年の郡来を最後に、ニシンはバッタリと途絶えてしまいました。
海水の温度が高くなったから、取り尽くしてしまったから、気まぐれな魚だからと諸説があるが、真相は不明です。
建網と呼ばれる問い刺し網が使われることなく、しかしいつかきっと郡来は来ると信じつつ待つ漁師の心情がわかります。

沖を通るは 笠戸丸
わたしゃ涙で
にしん曇りの 空を見る

ベッド数が多く大きな人員収容力と長い航続距離を持っていた笠戸丸は,移民船として絶好の条件をそなえており、第一回ブラジル移民船としてスタートしました。
それからは台湾航路,南米航路,再度台湾航路,日本海の鰯工船や蟹工船となった。
敗戦直前の一九四五(昭和二十)年八月九日,カムチャツカ半島西岸の日魯漁業ウトカ工場沖に停泊中,ソ連機の空爆によって沈められたといわれています。

郡来が来るのは不思議と、どんよりとした曇り空が多かったことから付けられた。

http://jp.youtube.com/watch?v=aLGE6-HwqbM&feature=related