8丁目のお店の隅で飲んでいると
手が空いたときに声をかけてくれる。
いびきをかかれたら困るし、
突然死されても困るから。
こんなときは東京を抜け出して温泉宿でも行きたいわねえ、
などと本気でないことをいう。
そうだねえ、田んぼの見える宿がいいね、
寝転がってかえるの声でも聞きたいね、
という。
田んぼの風景ね、
いいな、わたし絵を描きたいわ、
その様子を写真にとってね、
などという。
昔は日本画を描いていた人だ。
最近筆を持つのは自分の顔を化粧するときだけだ。
軽く笑った時に唇のかたちがもっとも魅力的に見えるように描いている。
葬式の写真にでもするかといい、
そういえば先月死んだ人の葬式で、
20年も前の写真しかなかったのだという話を
聞いた。
20年も写真を撮っていなかったとは、
あきれたやつだった。
田んぼの見える宿ねえ、
田んぼ、田んぼ、とつぶやきながら、
頭の中で田んぼの絵をかいている。
サインペンでケント紙に描く。
そういえば、この間の、岩手の地震でね、
地面が傾いて、田んぼに水が引けないんだ、
田んぼはきちんと水平に張らないといけないし、
水の入り口と出口を作って、
適当な水面を保たないといけない、
あれはやはり几帳面でないとできないことだねえ、
などと言い、
頭の中でせっせと苗を描き続けている。
そうか、斜めの田んぼはダメね、
なんて言って新しく来た誰かに挨拶をしている。
営業用の笑顔は百発百中で決まるのだが、
年をとってから、サービスが薄くなってきた。
東京の水はおいしいと言い張って、水道水で水割りを作っている。
東京の水がおいしくても、
最後の水道管が多分ダメでしょう
このビルの下からここまで、だいぶぬるくなってるでしょう、と
言うと
新しいとこにお引越ししなきゃなんていう。
まだ続けるつもりなのかと
いう。