ネット社会は情報ハイウェイで
すいすい行ける
しかし降り口で大渋滞
どういうことかといえば、
たとえば将棋の世界。
将棋の過去の情報を手に入れやすくなっているので、誰でも勉強できる。
自分と同じくらいの強さの人とネットで将棋することもできて、強くなる。
ここまでがハイウェイ。
しかしそこまでたどり着いてからあとが難しい。
みんな同じことを勉強してきたので、差がない。
強さも作戦も弱点も同じ。情報を共有しているから当然そうなる。
そこから抜け出す方法は独自に工夫しないといけない。
ここで大渋滞。
たとえば翻訳の世界。
昔より格段に調べものがしやすくなった。
検索で一発だし、複数情報にアクセスできて、
しかも最新版も探し出せる。
間違いが複製されて固定されている危険もあるが、
昔よりはずっとらくだ。
場合によっては、メールで作者やその周辺の人に問い合わせもできる。
ここまでがハイウェイ。
そうなってくると、あとは日本語を処理する能力になってくる。
場合によっては省略もしたり、説明を加えたり、
日本語出版物として、また読者層に合わせての、工夫が大切になる。
やはりこの辺が大渋滞。
調査そのものには大して費用がかからないので、
暇な人のほうが有利ともいえる。
意味を理解する能力と、
要求されるタイプの日本語を仕上げる能力と、
どちらかといえば、
前者はハイウェイを使って当たり前で差がない、
後者がむしろ差別化要因になっているらしい。
最近の商業主義は、よい日本語や深い日本語よりも、速い日本語が大切なようで、
これは業界の事情もある。
シェイクスピアでも芭蕉でも西鶴でも永平寺でもいいけれど
調べだせばかなりのことが分かる。
しかし間違いが含まれているとそのひとつの間違いが複製されて引き継がれていることもあり、
間違い続けることにもなる。
要するにみんな同じことを知っていて、同じことを間違えている。
ハイウェイはそんな景色だ。
そして調べていると、普通にできることはもうみんないろいろとやりつくしているのだとも思えてくる。
詩句もメロディも出尽くしていて、
物まねでないと主張するほうが難しい。
メロディは著作権ぎりぎりのところで引っかからないようにする。
それでも聞いているわれわれにはみんな同じように聞こえるのだが。
どんなことも既に誰かが言っている。
自分が思いついたと思っているのは、
ぼんやりしているからである。
そのうちインドの膨大な古典が日本語に翻訳されるようになれば
人間の脳の考える世界に新しいことなどないのだと痛感するのではないかと思われる。
価値観も大分変わるのではないか。
創作と反復はますます見分けにくくなる。
偽装も創作のひとつになる。
無意識の層での模倣を意識の層では創作と感じているとしたら
どうしようもないことだ。
世界のすべてを知ることはできないと
はっきり意識したとき
ハイウェイを降りて
何を始めるか
それも興味深い。