ネットは欺瞞情報を流せる道具である。
他人になりすますことができる道具である。
「嘘をつける」道具である。
「誰かになりすます」ことができる道具である。
他人の意見をこっそり拝借して自分が考えたように脚色できる社会である。
会ってもいない人に会ったことにしてその人が何を言っていたかを捏造できる社会である。
合成写真を流して捏造イメージを作ることができる社会である。
このようにして主体はいろいろな嘘を発信しているのだが、
そのうち自分の中身が嘘になっていることに苦しむようになる。
嘘ばかりつく人間が
私の実質は嘘をつくことですと
論理学の教科書みたいな事を
言って平気なわけではないのだ。
墓碑銘に私は嘘つきであると書くことの悲哀。
嘘はこの場合事実との関係が問題なのではなくて
他人の興味をひくかどうかということだと思う
つまり嘘をつく人間は他人の心理を操ることだけに関心があり
と言うことはつまり他人の心理に依存しているのであり
大多数が「もうその話には関心がない」と判断したら
その判断を受け入れるしかない
そのような意味で精神の実質が他者の集合にのっとられている
ガリレオ・ガリレイが言ったように
それでも地球は回っている
とはいえないで
はいはい、皆さんのおっしゃりとおりですというしかない
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しかしまた、
人間が文化を生きて言葉をつかうということは、
たとかにある意味で他人の集合意識を受け入れているということなのだ。
そうでなければ
他人に通じる言葉を話すことは出来ない。
自分の独自な感覚や体験を社会の共通の言語でどうして表現できるはずがあるだろうか。
もともと矛盾している。
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そのような原理的な矛盾はあるとしても、
人間は自分の人生を確かに生きているし体験を蓄積して
どの時間でも自分なりの人生を創りつつあるのだ
しかしその人生の実質が
嘘をつくことであったり捏造することであったり
他人の心が欲しているものを提供することであったり
その場合もやはり実質といえるのだろうか
たとえば一対一でものの値段を決めるときとか
多数者の間で株価を形成するときとか
嘘が威力を発揮する
昔からそのような人たちは一部には存在していたのだ
しかしネット社会は
そのような心理を増幅している
発信側も受診側も裏付けのあいまいな情報をやり取りし
理性の領域でさえも
人間の論理の検閲を合格していないような論理が発信されて受診されていて
途中のプロセスの検証は省略されて
結果だけが流れていたりする
だまされる人は自己責任なのだという社会にあって
ほとんどのことがだまされているとしたら
アドバイスはもっと頭がよくなりなさいというしかない
昔、村の嘘つきについてならば、
嘘の内容の検証を親が教えるのではなくて、
あの人またはあの人たちの言うことはうそなんだよ
それだけですんだ。
あるいはその人がどのような嘘をついてきたかの物語を語って聞かせることも出来た。
そのアドバイスは子供にも分かりやすい。
いまネットの中に流れている情報を見分けるのは
簡単ではない。
親としてもどのように子供にアドバイスしたらいいか分からない。
賢くなりなさいというしかないようなものだ。
変装して嘘をつくのだから、
人を見分けることは難しい。
時々ある、あなたにだけ期間限定で特別な情報をお分けしますという、
明らかに手軽な嘘情報を販売しているものがあり、
文章の傾向とか、
画面の構成とか、
よく似ていて、
あれなら子供でも、嘘だと分かる。
そのようなもの以外では
結局中身を吟味するしかないのだが、
なかなか難しいことがある。
たとえばある有名でない作曲家の個人生活のエピソードについて
何か語られているとする。
そんな内容について結局は吟味しようがないのであるが、
どうなのかなあと思ってしまう。
どっちでもいいからどっちでもいいのだろうか。
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ややこしいのは、
嘘の中には
発信している人が実は真実と確信しているものも含まれていて、
客観的な虚実についてはともかく、主観的な虚実についてあいまいな場合もあることだ。
その場合は、個人の精神病理学に帰着する。
しかしネットの画面からそのような事を読み取ることは容易ではない。
ネットに限らず、現実社会でも、
その人が妄想性人格障害であるかどうかについて、
妄想の領域が限定されている場合には、
発覚しにくいし、診断しにくいし、治療はなおさら難しい。
自分が病気だとは思わない人たちなのであるから。
自分は正しいと思い込んでいるのだから。
その信念は一定の人たちを牽引する。
そのこともまた困ったことだ。