社会不適応とネット適応

現代では、学校や会社でまったく有能性を発揮できなかったタイプの人たちが、
ネットの中で、「仮想的有能感」を発揮する場所を見つけているのだという。

この場合、ネット社会の中に逃げ場があるのがいけないというわけではないだろう。
現実社会に適応できないのはどうしてなのか。
あるいは逆にして、そのようなタイプの人たちを適応させない社会の実態はどうなのか、
そこが問題だと思う。

社会不適応であるのに
ネット適応である。

だとすれば、ネット適応を手がかりとして、
社会適応にまで導きたい。

その場合、現状の社会を100パーセント良いものとして認定するのではないし
ネット社会を100パーセント悪いものとして認定するのでもない

適応の場所として
塾でもなく
アルバイトでもなく
部活動でもなく
地域のスポーツクラブでもなく
ネットだったのはどうしてなのか
考える必要がある

*****
そして家庭というものが
適応の舞台とならなくなっていることが
家庭の機能が欠損してきている
証拠だろうと思う

生産の単位ではなくなった
個々が外で稼いでくる

消費の単位ともいえない
みんな別々のものを外食で食べ
好きなものを好きな店で買って身につけている

生殖の単位であることは確かなのだが
そのあたりも最近はもうあやふやである

葬式の単位として檀家登録されているのだと思うが
そんなことは誰も普段は考えない

適応に傷ついた全能感を
癒す場所は家庭ではないのかと思う
それを植えつけたのは家庭であるから

そもそも赤ん坊の時に勝手な期待をして勝手な喜びようをした人が
空想的全能感の種をまいたはずである