ネット社会の万能感という場合の万能感とは何か

ネット社会の万能感という場合の
万能感という言葉には注意が必要である。

Omnipotentの翻訳であり、
多能感、全能感、万能感などと翻訳されている。

確かに親指ひとつで、またはクリックひとつで、
いろいろなことが可能になるのであり、
その延長として、自己の多能感または薄めて言って、有能感を
錯覚することもあるだろうとの議論なのであるが、
誰しも、それは極端な話なのだとは分っている。

ネット社会の延長として、現実社会においても、
本気で自分が有能だとか多能だとか信じているのであれば、
その場合には、むしろ妄想とか知能の障害とかを考えることになるかもしれない。
その程度はわきまえているものである。

*****
しかしながら、万能感という言葉は微妙に我々を惹きつける。
万能感の一面をかなりの程度薄めていけば、
その一部には能動感が残るだろうと考えている。

人間の主観的意識の成立のためには
能動感が大切な要素だと私は考えている。

総理大臣が、私はあなたと違って客観的に自分を見ることができるのだといった内容の発言をしたとして、
客観的に自分を見るためには
どうしても客観的に見ている主観が必要なのである。
結局は主観的にならざるを得ない。

このあたりの事情をさしてデカルトはコギトについて言及した。

人間の生存と生殖に関して言えば、
主観的体験を意識することは有利ではあるが不可欠ではないと思われる。
無意識のうちに行動していることは誰しも経験がある。

外科医が当直をしていて、眠いところをいきなり起こされて、
手術を滞りなく行い、次の日の朝になって、カルテを見て、
その記憶のないことに驚くという例はしばしば言われる。
また、考え事をしていて、改札をまったく主観的注意の意識なしに
通り過ぎ、その時間帯の意識がまったく欠けているという例もしばしば言われる。

人間は主観的意識を欠いたままで立派に生きられる存在であるようだ。
あればお互いに便利だという程度のものらしい。

その主観的意識がどのように発生するかについては、
大きな謎であることはカント以来誰もが認め、
あいまいな仮説を持ち出しているが、
実証には遠く、珍しく、カトリックの政治力をもってしても、
定説というものがない。

我々は主観的意識の発生について仮説を持っており、
その内容の骨格は、統合失調症の場合の自我障害の観察に由来している。
させられ体験、能動感の消失、被動感といった系列の症状からは、
人間の意識の能動性は実は脳が操作して作り出しているものであり、
その操作部分が破壊されたときには
まったくの自然状態である、神経は反応の束であるというテーゼにまで
戻るのだろうと思われる。

実際、脳に視覚や聴覚など各種のモードの感覚が到達するまで、
時間が一致しているとは考えられない。
足の親指をやけどするとき、
目からの信号、耳からの信号、皮膚からの信号は、時間としてずれているはずである。
しかし脳はそれらを総合して、同時であると判断するように調整している。

同じような調整の仕方で、
能動的行為の予想と結果を操作して、予想を常に先に感覚し、
その後に行動しているので、その差が、
能動感として残るのである。

この部分が破壊されると、能動感は失われる。
したがって、能動感が失われた状態がむしろ自然状態であり、
世界は予想できず、
行動は刺激に反応するだけのもので、
主観的意識はつねに行動に遅れているはずである。

ところが脳はその時間を逆転させているので、
主観的体験としては能動感が発生する。
それは簡略に言えば、「予想通りに事が運んだ」「意図したとおりに行動した」と
主観的に意識する錯覚が生じていることになる。

そのことと万能感の幻想とはほんの一歩である。

*****
わたしは日ごろはそのような意味で
万能感とか能動感という言葉を使っているので、
ネット社会の幻想的万能感といっても、
むしろ、人間はだれでも薄められた能動性の幻想の中で生きているのであって、
その方向の万能感をネット社会や携帯が裏づけしてくれるわけでもない。
もしそうなら、万能感や有能感や能動感が薄れてしまった人に
ネット社会や携帯世界で自信をとりもどし、
能動感の感覚を取り戻してほしいくらいなのである。