竜宮城から帰ってきた浦島太郎はおじいさんになってしまった。
しかしキレやすくなったとは書いていない。
ネットから帰ってくると
キレやすくなっているのではないかと心配している。
暴力的になったり、性的衝動を抑えられなくなったり、
悪い性質を帯びてしまうのではないかと
心配している。
もともと小説でも写真でもビデオでも
表現の工夫とかメカニズムの発展とかは
性的表現とその享受と深く関わっていると思う。
ヤザワのコンサートをハイビジョンで見たいのではないのだ。
大音響装置はもちろんスピードと絶叫のためにある。
スピードとスリルを描く場合はしばしば死と暴力とセックスがセットになっている。
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子供用のものなら安全かといえばなかなかそうでもない。
フランダースの犬は実に不健全で理不尽な死を描いている。
ハイジの場合も、不幸の中でどのようにして幸せに生きるかという命題であって、
根本的には家庭の不幸があって、どうしようもない。
赤毛のアンもそうだ。
与えられた困難は大きすぎる。
まじめに考えれば、かなりのトラウマである。
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ネット漬けになって変わってしまったと
論じるなら、
田舎にいた人が東京に行って変わってしまったとか、
日本にいた人がニューヨークに行ってすっかり変わってしまったとか、
弓道部だったのが軽音楽部に入ってすっかり変わってしまったとか、
A君とつきあっていた人がB君とつきあいだしてすっかり変わってしまったとか、
環境は人を変える。
ネット漬けはそのような環境の一つに過ぎないのではないか。
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ネット漬けがどのような価値観を産むかといえば、
まず第一に消費主義だろう。
至る所にコマーシャルである。
誰も地道に生きましょうとは言わず
ぱっと行きましょう、買い物をしましょう、お金は借りましょうと
始終流れている。
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ネット社会では自由に情報を選択できるのかといえばそうではなくて
かなりの程度誘導されている。
テレビはもちろんコマーシャルを強制的に見せる道具であるが、
ネットは強制の外観を緩めた、しかしかなりの程度に強制的な
情報接触誘導装置である。
頭に何かを刷り込むにはいい機械なのである。
ものを覚えてそれを批判的に考えることができるまでにはかなりの知性が必要である。
何度見ても何も覚えない人もいる。このタイプの人にはコマーシャルは無効である。
何度も見ていればそれを無批判に受容する人もいる。この種の人にはコマーシャルは有効であり、テレビタイプでも充分である。
からくりを知って価値判断をしながら接することができる人もいる。このタイプの人には、さらに高等戦術で、欲しがっていそうな情報をタイムリーに届ける技術を使う。アマゾンなどが成功した例である。このタイプの人にもやはりネット広告は有効である。
自分で選んで好きなものを見ているようでいて、
実際は企業の狙い通りにコマーシャルを視聴している、
そのような構図。
能動的であるように見せて、実は相手の計画通りである。
これは脳の能動性の錯覚の発生とまるっきり類似していると思う。
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だからこそネット広告は存在するのだし、
その資金があるからネット社会は存在する。