誇大性、誇大自己、誇大感、自我膨張、尊大,傲慢、
a grandiose sense of self-importance、ego-expantion、などの言葉が並ぶ。
昔は誇大性といえば躁うつ病のときに使ったもので、
そのあとは自己愛パーソナリティ障害に使い、時にはボーダーラインパーソナリティ障害に使い、
最近では再び躁うつ病とそれに関連する病前性格傾向と関連づけて使ったりしている。
躁病の場合の誇大性は気分の変調なのではなくて
認識の変調そのものかと見えることがあると思うが
最近はそうではなくてやはり気分の問題がプライマリーなのだということらしい。
認識の問題ではないというのは、
気分が循環して、うつ病の時期になると
すっかり誇大感はしぼんでしまうからである。
しかし誇大感は依然として持続しているからこそ、
現実に絶望するのだと
私は頑固に思う。
最初から人生はこんなもんだと思っていれば、
あまりがっかりしないはずだろう。
いや、そう思っていても、やはり落ち込んで涙が出てしまうのだから、
やはり気分の問題なのだということになる。
異性にふられてつらいのは
自分も少しはいいと思っているからで
ちゃんと鏡を見ていれば
そうなることは予想できたはずだろう
そして、とにかく認知の領域と気分の領域を分けて考えようではないか、
と言えば確かにその通りで、
純粋感情病があっていいと思うが、
やはりプライマリーに認識がずれているとしか思えない。
だって、気分がいいからといって
鏡の中の自分が急に魅力的になるはずはないだろう
それは認知がずれているといった方がいいのではないかという気がする
ケースによるのだろうが
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とにかく、ネット社会と誇大性はつながっていて、その通路に自己愛があるらしい。
しかし誇大性の本物は躁状態なのであるから、
ネット社会と自己愛と躁状態はつながりそうだと思う。
躁うつ病の復権とか躁うつ病への回帰などと言われるが
現代社会のある面、たとえば金融全体のばくち化とか、
四六時中可能になった電話やメールとか、
世界中のどことでもつながってしまうネット回線とか
情報化社会であふれるような情報が簡単に手に入り
すぐにでも博識になってしまう
刺激を求めて誇大に表現するテレビもある
そんなもの全体は躁状態を後押ししているはずで
何か病気なになるなら躁うつ病になりやすいのではないかと見当はつくだろう
最近の人の怒り方とか悲しがり方とか
それを見ていると純粋うつ病のタイプではなくて
いかにも躁うつ病タイプなのだと思う
簡単に言えば人を責めるときは徹底的に責めるし
全然反省しないし自責も薄い
そんなことの背景にはやはり誇大性が見えていると思う