自己愛性がすごく強くて
誇大的
賞賛を要求し
共感性がない
という人の場合、
すごく威張っているくせに、
全然重要でもない人物から少しいわれただけで
ハートが砕けてしまったりするらしい。
あんなに威張っていたのにそんなにも弱いのかと
まわりがびっくりする位だ。
心の中にしっかり励ましてくれるお母さんがいれば
別に誰にどういわれてもいいのになあと思うと
その人は言うのだが
確かにそうだとも思う。
威張っているけれど、内心はびくびく、というのが最近の傾向らしい。
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自分をしっかり褒めて励ます内部構造はどんな風にしたらできるのか。
あるいは、むかしはそんな風な「ど根性タイプ」がいくらもいたものだが、
どこが違ってしまったのか。
へこたれない構造。
小児科の先生が言うように養育環境なのだろうと思う。
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端的に例を挙げると、
「あの人のせいよ、あなたは悪くない」と言われるのと
「それでも乗り越えるあなたは立派だ」と言われるのと
どうか?
そうは言いながら、親の世代がすでに「乗り越える」タイプではなくて、
「あいつが悪い」タイプだから、違うようには育てようもないのかもしれない。
親が「乗り越える姿」を見せられない。
他人を批判してごねている姿ばかりを見せているのだから、どうしようもない。
「他人のせいだ」を内在化させておくと、結局は、「親のせいだ」になってしまうようだ。
ある年までは親は他人ではないけれど
ある年からは親は他人になるようで
そうなると徹底的に親のせいになってしまう。
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「あなたはすでに立派だ」というメッセージにも問題があるのかもしれない
「あなたは努力すれば立派になる」というメッセージの方がいいのかもしれない
しかしそれは無条件の肯定にはならず
努力と向上の押しつけになり、最後には、
「親は私を愛してくれなかった」という感覚につながるかもしれない。
そう思うとしつけも怖くなる。
しつけも外部委託になる。
自分が政治家や公務員や企業をつるし上げしているその分、
今度は自分が子どもにつるし上げられるかと思うと怖くなる。
だから子どもをしつけられない。
子どもが親を批判対象にしないように親子の距離を縮めておくのだろう。
一体感を延長しておいた方が批判されなくてすむ。
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一番弱い立場にいれば、批判されなくてすむ。
それがマスコミの構造というものだ。
実際には、立場が弱いものであっても、
いいところもあるし、悪いところもあるものだから、そこはきちんとけじめをつけていく方が
本人のためになる。
しかしマスコミは本人のためなどは一度も考えたことがない。
杓子定規なおためごかしを毎日言っていると感覚も麻痺してくる。
自分のアイデンティティがはっきりしていない人は
マスコミやテレビの言葉を繰り返すようになり、
水戸黄門のように悪人と善人がはっきりした世の中で、
自分は圧倒的に善人の側で、助さんのように圧倒的に能力で世間を裁く気分になる。
それが行きすぎたものであることは、
同じ態度を子どもが親に向けたときにはっきり分かる。
子どもは弱者だから批判を受け付けない。
そして万能の批判の言辞を繰り出す。
野球解説者が勝手なことを言うのと同じである。
そこにはお互い様という基盤が欠如している。
見る側と見られる側がはっきり分かれている。
共感性がない。
共感性というキーワードが出たところで、自己愛の肥大の話にまた戻る。
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お互い様の欠如。
相互性の欠如。
立場を入れ替える想像性の欠如。
たとえば男と女とかは、途中で入れ替わるものではないから、共感性があるかないかでずいぶん違う。
女性の立場も考えてくださいという言葉が
届く人と届かない人がいる。
また、女性であることも特権的な立場にあくまでもしがみつく人もいる。
けが人の気持ち、虫歯の人の気持ち、などは比較的共感しやすいかもしれない。
生まれた時から政治家の子どもということであれば、
共感性は育たないかもしれない。
昔からcmpassionはキーワードであり、
また現代のキーワードになるように思う。
リーマンで14億円もらっていた人が、だって私は頭がいいから、と言うなら、
共感性が欠如しているわけだ。
キリスト教ではそのあたりは結構厳しく言うように思うが、どうなのだろう。