名横綱双葉山と木鶏の逸話
(安岡正篤『人物を修める』致知出版社刊より)
老子の後学で、恐らく老子とその最も代表的な後進である荘子と前後する人と思われるのが列子であります。しかし、この人については、老子の後学で荘子の流(ながれ)であると推定される以外、全くわかっておりません。その「列子」に「木鶏」の話があります。
紀渻子(きせいし)、王の為に闘鶏を養ふ。十日にして而して問ふ、鶏已(よ)きか。曰く、未だし。方(まさ)に虚憍(きょけう)にして而して気恃(たの)む。十日にして又問ふ。曰く、未だし。なお影響に応ず。十日にして又問ふ。曰く、未だし。なお疾視(しつし)して而して気を盛んにす。十日にして又問ふ。曰く、幾(ちか)し。鶏、鳴くもありと雖(いえど)も、已に変ずることなし。之を望むに木鶏に似たり。其の徳全し。異鶏敢(あえ)て応ずるもの無く、反って走らん。
これと同じ話が「荘子・外編」に出ております。紀渻子という人が闘鶏の好きな王(学者によって説もありますが、一般には周の宣王ということになっています)のために軍鶏(しゃも)を養って調教訓練しておりました。そして十日ほど経った頃、王が“もうよいか”とききましたところが、紀渻子は“いや、まだいけません、空威張りして「俺が」というところがあります”と答えました。さらに十日経って、またききました。“未だだめです。相手の姿を見たり声を聞いたりすると昂奮するところがあります”。また十日経ってききました。“未だいけません。相手を見ると睨みつけて、圧倒しようとするところがあります”。こうしてさらに十日経って、またききました。そうすると初めて“まあ、どうにかよろしいでしょう。他の鶏の声がしても少しも平生と変わるところがありません。その姿はまるで木彫の鶏のようです。全く徳が充実しました。もうどんな鶏を連れてきても、これに応戦するものがなく、姿をみただけで逃げてしまうでしょう“と言いました。
大変おもしろい話でありますが、私はこの話を往年の名横綱双葉山関にしたことがありました。これは双葉山関自身が『相撲求道録』という本に書いておりますが、まだ横綱になる前の大変人気が出てきた頃でした。双葉山を非常にひいきにしていた老友人に招かれて一緒に飲んだことがあるのです。なにしろ私もまだ若かった頃ですからつい一杯機嫌で、“君もまだまだだめだ”と申したましたろころ、さすがに大横綱になるだけあって私もそのとき感心したのですが、“どこがいけないのですか”と慇懃(いんぎん)に尋ねるのです。そこで私が木鶏の話をいたしましたところが、大層感じ入ったらしく、それから木鶏の修行を始めたのです。その後は皆さんもご存知のようにあのような名力士となって、とうとう六十九連勝という偉業を成し遂げたのであります。なんでもそのとき、私に木鶏の額を書いてくれということで、書いて渡したのでありますが、その額を部屋に掛けて、朝に晩に静座して木鶏の工夫をした。本人の招きで私も一度まいりました。
今度の大戦(第二次世界大戦)の始まる直前のことでありますが、私は欧米の東洋専門の学者や当局者達と話し合いをするためにヨーロッパの旅に出かけました。もちろんその頃はまだ飛行機が普及しておりませんから船旅ですが、ちょうどインド洋を航行中のときでした。ある日、ボーイが双葉山からの電報だと言って室に飛び込んできました。なにしろ当時の双葉山は七十連勝に向かって連戦連勝の最中で、その人気は大変なものでしたから、ボーイもよほど興味を持ったらしい。そして“どうも電文がよくわかりませんので、打ち返して問い合わせようかと係の者が申しておりますが、とにかく一度ご覧ください”と言う。早速手にとってみると「イマダモクケイにオヨバズ」とある。双葉山から負けたことを報せてきた電報だったのです。なるほどこれでは普通の人にわからぬのも無理はありません。この話がたちまち船中に伝わり、とうとう晩餐会の席で大勢の人にせがまれて木鶏の話をさせられたのを覚えています。
その後双葉山の木鶏の話が自然に広がり、あちらこちらに鶏ならぬ人間の木鶏会ができました。しかし、これは結構なことです。
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かの安岡正篤を捧げ持って
雑誌「致知」がある
稲盛和夫、牛尾治朗、渡部昇一と並んでいる。
渡部昇一もすでに名誉教授とのことで
なるほどみんな年をとるわけだ
安岡正篤と他の執筆諸氏を並べるとやはり日本知識人階層に段差ができていたことに
気づかされる。
学生運動で大学が荒れた頃があって
その頃の傷からまだまだ回復していないのではないかと思う。
あるいはその頃からの愚民化政策が完全に
国民の気質を変えたようにも思う。
致知という雑誌の目指す方向は
もちろん伝統的な儒学であり四書五経なのであり、
その延長の朱子学でありまた陽明学であり、
そのような充分な栄養素が図書館にはあるにもかかわらず、
現代的な花は咲いていない。