対他配慮は、
ただ単に自分が傷つかないようにというだけではなくて、
相手の幸せまできちんと想像できるということだ。
相手の立場に立てばこうだろうなと推測できること。
そしてその上でなお、この人とはもうつきあえないと感じたとしても、
礼は尽くす。失礼はいけない。
そのようなものが旧来の他人に対する配慮である。
最近の他人に対する配慮は、
自分が目立つことで相手を怒らせたらどうしようとか、後で仕返しされたらどうしようとか、
そのような面が強いように感じられ、だとすれば、自己防衛的配慮と呼んでいいかと思う。
相手が何もしないような老人だったりすれば、平気で失礼なことをしたりする。
客と店員ならば徹底的に客の権利を主張する。
急激に傲慢で徹底的で冷酷で非共感的になる。
それは自分が反撃を受けないと分かっているからだ。
そのような安全な場所からであれば徹底的に攻撃する。
こう書くと、とんでもなく卑しい態度のように見えるが、
みんなが何となくそんな傾向を帯び始めているのはなぜなのかということが問題である。
親として教育に困るし、教師としても困る。
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共感を育てることは教育の大切な目標である。
自分が正しいなら人のことは正しくないとして評価しなくてもいいという主義もあるだろう。
しかしそうではなくて、自分が正しいということはほぼ信じながらも、
相手が違うことをいうのには、その背景というものがあるかもしれないと想像してみることである。
自分の知らない事情があるのかもしれない、多分あんなこと、
そんなこと、いろいろな可能性があると想定してみること。
それが脳のシミュレーション機能である。
基本設定を変化させて、結論を導いてみる。
多分このような仮定を置けば、ほぼその人のような考え方になるのではないかと
考えてみる。
そうか、それならば、そのように考えるかもしれないと、共感するのだ。
精神医学では了解できないときは、それは精神病の領域である可能性を考えなくてはならないという結論にいたり、なかなか重大なことになる。
しかしそこまで飛躍しなくてもいい。
まず自分の隣にいる人、間の前にいる人をどのようにしたら
共感的に理解できるのか、トライしてみることだ。
共感を阻む壁があったとしたら、
それは自分の壁なのかどうか、考えてみよう。
一生かければいい問題である。ゆっくり考えよう。
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以上の意味で、従来の対他配慮は、積極的に利他的積極的配慮といってもいいだろうか。
最近の配慮は利己的防衛的配慮である。