自己愛からアイデンティティへ
尊大,傲慢な態度の背後に小心,臆病,心配性が見え隠れするのは自己愛型の特徴である。臆病ではないから傲慢なのではなく、臆病であるからそれを補うために傲慢なのである。生育歴でいえば、親が子どもを賞賛する場合には特に理由も裏付けもない。単に盲目的にかわいくて、しばしば誰も読めないような非実用的な名前を付けたりする。こどもは傲慢になるが、何が裏付けなのか分からない。成長の過程で、自分は傲慢になる理由はないのだと悟るか、何かの理由で自分は傲慢でもいいのたと思うのだろう。しかしそのような体験もなく、子どもの時のままの心性を持ち越して、傲慢であるがその理由は分からず、従って、本質的には小心、臆病、心配性であるような人がいる。自分の得意な領域にのみとどまりたいと思うのも、自己愛型の特徴で、臆病に耐えられないからである。空想性が特徴の場合もある。小心と傲慢の間を空想で満たそうとする。自己愛的な怒りの背景には臆病がある。
こうした自己愛の固着を打開するのが、社会的に肯定されたアイデンティティへの転化である。
しかし現代では、社会的に肯定されるアイデンティティの側であまり力がなく、
未熟な自己愛のままでモラトリアムの延長を続けているようである。