感慨がある。
1.日本の思想的風土もここまで来てしまったのだ。
2.性格成熟の問題として日本の現状がよく映し出されている。
3.陰謀史観を発言させている陰謀家はどの筋か。
4.独特な視野の狭窄。
1.
一族の歴史は常に書き換えられるものだ。編纂者の意図によって。
結局歴史記述は時の権力のありかを示している。
客観的な科学であることはきわめて難しい。
問題は、誰が一族でどの範囲が一族なのかということだ。
現代では全世界の市民が一族なのだという感覚を持ちたいものだ。
2.
たとえば中学高校生が人権を主張して大人を困らせる。
おまえが教えたことではないかと居直る。
部分的真理を振り回して全体を見ない。
たとえばモンスターペアレントが部分的真理を主張する。
クレーマーも同じ。
個人の特性の問題ではなく、社会の全体にこのような傾向が瀰漫していることはよく言われている。
それに対しては根気よく教育していくしかないのであるが、
実際のところは教育する側に根気が続かなくなっている。
また、
このようなことが起こったときに、身内の中で一人くらいは大人の分別ができる人がいて、
諫めてくれたりするものなのだが、最近はそうでもない。
最近よく見られる風景がここでも繰り返されている印象を受ける。
少し話は違うが、新自由主義者が個人的利益の追求を合理的に合法的にして何が悪いと
居直る風景を思い出す。
家族はたぶん、あんまりだと思いながら、でもみんなやっているんだしと思っていたと思う。
3.
人事は安倍・久間・守屋のラインが機能していた頃のことらしい。
従って、陰謀とすればそのラインを快く思っていない勢力の画策かと思われる。
森、町村、安倍、小泉のバランスが急変しているのだろう。
舞台を造り守る役割の人が舞台に上がって踊ってしまい
その踊りは何とも素朴民族芸能的だったというわけで
踊り自体は好きな人も嫌いな人もいるだろうがかなり困ったことだ。
しかしここではこの人を舞台に上げてしまった勢力の意図を思う。
あの人なせ踊るだろうと見込まれて実際によく踊っている。
踊らせて何を意図しているのかよく分からないところもある。
それともこの人と周辺がこの素朴な踊りを踊りたかっただけなのか、不思議なことだ。
4.
もっといろんな友達を広い範囲で持った方がいいんじゃないか?
と老人は思う。
去りゆく者には風景はどれも懐かしい。
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村山談話は言論統制の道具であると思いつきか持論かを展開したらしい。