日々是修行 仏教

机の上のそこら当たりに
どうしたものか
2007年4月5日の朝日新聞夕刊の切抜きがある。
ずっとあったがこんなに古いものとは思わなかった。
今日は2008年3月25日だから、ほぼ一年になる。
速く過ぎた一年であった。

「日々是修行」と題する連続もののひとつのようだ
仏教の佐々木閑氏の執筆。

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(略)
諸種の事情で人生の方向を変えるたびに、積み上げてきたものがすべて無駄になったような喪失感を感じていた。
(中略)
そうやって虚しく失われてしまったと思い込んでいた様々な体験が、私という存在の中でとても自然なかたちで私を助けてくれていることに気がつく。無駄なことだと思っていた過去の様々な体験が、実は、私がここにこうして生きているための大切な栄養になっていることに、改めて思い至る。
(略)
それは一言で言えば「修行」である。誠実に勤め励むことに人生の価値を見いだす。それが仏教の本義である。
間違うこともある、失敗することもある。だが、間違ったら直せばいいし、失敗したらやり直せばよい。ともかく、日々の努力なくしてはなにも始まらない。そうやって日々、迷いながら正しい方向を求めて努力していく。そこに仏教の目指す生き方がある。仏教は、私のぐるぐる回りの人生にも、「それでもいいのだ」と太鼓判を押してくれる。
(略)

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「間違ったら直せばいいし、失敗したらやり直せばよい。」
なんというなんという long span optimist なのだろう。
いいことだ。

「無駄なことだと思っていた過去の様々な体験が、実は、私がここにこうして生きているための大切な栄養になっている」
そのことを知るまでにどんなに人は苦しむだろう。
この言葉を読んで理解しても、このことを感得したことにはならないだろう。
実際の自分の人生について、
パズルのピースがぴったりはまった瞬間を体験しなければ、
納得できないだろう。

「それでもいいのだ」と太鼓判、という。

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このことを自分の人生について、くっきりと判別することが大切なのだ。
他人の人生について、「直せばいいし、やり直せばいい」「それでもいい」「待ってみよう」とは言いやすい。
しかし自分の人生についてそのように自分にアドバイスできるかといえば、多分、かなり、難しい。

人の話を聞くと、そこには圧縮された人生があり、なんとも濃密な時間を体験する。
人間一人の人生は誰の半生も恐るべきものだし、その悩みはとても深い。それぞれが独自に深い。
「転職しようと思って辞表を書きましたがまだ机の中にあります」その夜。
「彼は他の女の人と暮らし始めたと私に言いました」その瞬間。
その夜のこと、その瞬間のことは、独自のものだし、伝え切れないだろうが、なんとか補いつつ、聞く。

そんなつらい瞬間も、あなたの人生の大切な瞬間なのだと思いつつ聞くが、もし、起こっていなかったら、その方がよかったと言われれば、そうだろうと思いつつ、聞いている。

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このような仏教もあるもので、
これは中村元の仏教ともかなり違うだろう。

チベット仏教と佐々木先生の仏教の共通集合を抽出してみるのがよいのかもしれない。