私のどこが好き?
なんて聞かれて最初は適当に答えていて調子がいいのだが
ある時点からは
どこも好きじゃないよ、まだそんなことしか言えないのかな、だからつまらないんだよ、
などというように変わってしまう。
どこが好きと言っても、
雑誌にも書いてあるような、映画にも出てくるような、そんな恋愛をしているだけで、
なにも必然的な理由があって運命の恋愛しているわけでもない。
恋愛とはこういうものだろうという空想があって、
それをきちんと満たしてくれる相手がいるからそれでいいと思うだけ。
食欲と性欲と自己愛が満たされる。
相手がとても気に入るように振る舞うことがうまいだけ。
ある意味で合わせている。
相手がまじめなら、そのまじめな自己愛を満たすように振る舞うのがうまいだけ。
そんなことがうまいのならば誠実であるはずもない。
しかしそんなことが下手ならば恋愛に向かない。
むしろお見合いで話をまとめた方がいい。
自己愛人間同士は難しい。
難しいが微妙にマッチすることもあるのだ。
相手が適当に夢を見て自分を賛美している限りにおいてはつきあえる。
現実を見て批判したり、ましてや相手の欲求よりも自分の欲求を優先させるような言動があったりすれば、そこで終わりになる。
ここが難しいのだけれど、
実はいつでも自分の欲求が一番大事なのである。
しかし自分第一で振る舞いながら、お互いに夢を見ているので、
相手は自分を優先していてくれると思い込むことができるのだ。
お互いに自分第一なのだけれど、相手はパートナー第一主義だと錯覚できる。
そのような組み合わせがある。
幻滅するのも時間の問題ではあるが、最初のうちはうまくいく。
この人たちに愛とは何かと聞いてもよく分からない。
欲求や献身や利己主義、利他主義といった各パーツについてはくっきりと認識できている。
しかし恋愛とは何と聞かれて、いつでも自己愛の下に恋愛があるので、分からない。
雑誌や映画には自己愛以上の恋愛がありそうなのだけれど、
それは特殊な状況があるからだという解釈だ。
平凡な日常の中で燃えて駆け落ちするとか心中するようなこともないわけで、
そんな退屈さを恋愛といっていいのかどうかよく分からない。
一人でも生きていけるのだから
恋愛がなければ一人で生きてゆくだけだろう。