”第2章の契約に定められている13個の契約は、すべて債務本位になっている。
さらに民法自身も、金銭債権といったり金銭債務といったりして債権を債務を混同している。
しかも、第1章総則は債権本位であるにもかかわらず、第2章契約は債務本位であるから、総則の理論を契約に応用することができない。
多くの法律家は債権と債務は同じという考えになってしまった。
ドイツ語のSchuldの本来の意味は債務でるが、これが日本語に翻訳されると債権になった。
100万円のローンについえ考えて見よう。
貸主は借主に100万円の支払いを請求できる債権をもち、借主は100万円を支払わなければならない債務を負担している。
しかし、債権は価値があるが、債務は価値がない
債権は財産であるが、債務は負債である。
債権は権利を行使することも、しないことも、放棄することもできる。
また財産であるから他人に譲渡することもできる。
これに対し、債務は法律により履行を強制され必ず履行しなければならない。債務の放棄も認められないし他人に譲渡もできない。
債権が多くなっても破産しないが、債務がおおくなると破産する。
債権は債権者に喜びを与えるが、債務は債務者に苦痛を与える。
契約が成立すると、代金を払うという債務と、車を渡すという債務が発生する。
債権本位に考えるとそもそも契約は成立しないが、債務本位に考えると契約が成立し、買主には代金支払い債務が、売主には車の引き渡し債務が、それぞれ発生する。
売買では、債務が重要で、債権は、債務から流出するということになる。
ドイツ民法241条1項は、「債務関係の結果、債権者は債務者に給付を請求できる正当な権利を有する。」 と、明記し、債権は債務から流出することを示している。
日本では債権民法で、欧米では債務民法で、ここに法律の摩擦が生じているのである。
地上げのために土地ころがしが行われ、売買が続けて5回されたとき、登記名義の変更は、第1の売買の売主から直接に第5の売買の買主にしてよろしいというのである。
中間者の登記が省略されるためこの名称がある。
どうしてこのようなことが可能なのか?債務本位の民法ではこれは許されない。なぜならば登記名義の変更は法律上の義務で、義務を放棄することはできないからである。
しかし、債権本位の民法ではこれができる。第1から5までの買主はそれぞれ自分に登記名義を移して欲しいという登記請求権を持っているため、権利であるため、これを放棄できる。
第1から4の買主が、それぞれ登記請求権を放棄すると、第1の売主から第5の買主に直接、登記名義を移すことができる。
これこそ、まさに債権民法による中間省略の登記の承認である。
このように日本民法が口約束だけで土地の売買ができ、中間省略の登記を認め、登記申請に際し契約書の提出を必要としないため、土地をころがして地上げすることを容易にし、バブルの形成に奉仕したのである。(※)
債権本位の立場にたつと、債権のみが問題となり、債務と債務の履行は無視される。売買契約によって、売主は代金債権を、買主はダイヤの引渡しを求める債権を取得する。
欧米の民法は、すべて債務本位で、債務者が債務を履行すると債務が消滅し、その結果債権も消滅する。ここには債務者の履行行為という弁済がある。
代物弁済は、本来、債務者の弁済することであるが、民法のこの原則を曲げて、債権者が代物弁済をできるという解釈をするよになった。”
※平成17年3月7日より施行された改正不動産登記法により事実上、中間省略登記ができなくなった。しかし不動産業界をはじめ産業界の強い要望もあってか内閣府規制改革・民間開放推進会議は法務省との折衝を重ね06年12月25日の最終答申で「第三者のためにする契約」というスキームを導入することで中間省略登記と同様の結果を適法に実現することを可能とし、翌26日の閣議で、最終答申の内容を全省庁が最大限尊重することを決定。http://www.nsk-network.co.jp/070102.htm
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つまるところ、お互いにobligationを負う約束をすることで契約が発生し、その後に請求権として債権が発生する。最初に約束がないと相手にobligate=強制できない。あくまで契約が先で、債権と債務が同時発生するわけでもない。
ここはなかなか深いポイントだ。
さらにいえば欧米の民法に、債権という権利概念があるかどうか疑わしい。
債務(=obligation)を、債権という権利概念として間違い翻訳をしてしまったために、日本人は契約という概念を理解しそこねたのかもしれない。契約には義務しかなく権利はないという考えもできる。契約=contractとは、お互い=conがtract=引っ張るという意味だが、引っ張りあう行為がお互いの義務に相当し、押す行為はない。
債務の不履行は、契約違反として犯罪に等しい(債務者監獄行き)と考えれば、やはり権利概念はでてこない。
日本語では債権と債務はきれいな対言葉のようになっているが、英語ではそもそも債権という言葉にぴたりと対応する単語がない。あるのは債務(debt,obligation)という言葉だけだ。
もし、債務と債権なるものが同時発生するのであれば、債権という権利の放棄はやはりできると考えられる。しかし、それは契約の解消であるから一方の意志だけでの契約解消行為はできないと考えるのが筋だ。だから権利は契約によって発生しないと考えた方がいいのではないか。契約によって発生するのは義務だけだと。
このように、どうも債権という言葉は単なる誤訳にとどまらない根本的な間違いがあるような気がする。
日本の民法は、もともと存在しない債権という名前の権利を契約概念に埋め込んでしまったのではないだろうか。