政府に無条件に権力を与えすぎている

Fight Monkey with machine guns
日本政府(=司法+立法+行政)の愚劣さと卑劣なメディアの翼賛体制を見るにつけ、怒りを通り越してあきれかえるしかない。もはや日本は終わっているとしかいいようがない。

立法、行政、司法といった政府権力は、族ではなく”賊”といった方が適切であろう。
この3権を称して”三賊”と呼ぶといいかもしれない。さらにメディアはそれにこびへつらう下賊である。
これは、バスティアが”法”で書いたLegal Plunderの世界を大規模にしたものである。その点、政治世界は堕落こそすれ、全く進歩などしない。

今のDemocracyという法システム、もしくは社会システムに根本的な欠陥があり、政府に無条件に権力を与えすぎているということだ。アメリカのConstitutionalismとは、この権力の抑制の仕組みに他ならないのだが、これはやはりハイエクがLLLで書いたようにもはや完全な失敗に終わった実験であろう。ハイエクのLLLは、Constitutionalismが明らかな失敗に終わったために、新しい制度的発明の必要があるとして書かれたものなのである。
しかしハイエクのLLLがその新しい制度的発明として成功しているとは言い難いが、リバタリアニズムとはこういった問題意識を背景として生まれてきたものだ。

それでもアメリカのConstitutionalismもF.D.ルーズベルト政権になる前までは無傷だったのだが、FDRのファシズム政権によって致命傷を負ってしまった。レーガンが連邦最高裁のChief Justiceに任命したレーンキストのNew Federalismによって、徐々にConstitutionalismは回復に向かうかにみえたわけだが、いったん壊れてしまったガラスは完璧には元通りにはならないということか。
しかしそうはいってもアメリカには日本よりは可能性がある。ランディ バーネットがいうようにアメリカ憲法は、少なくとも政府権力と戦う武器にはなるからだ。
その点、日本は権力と戦う武器が一切ないし、はじめからない。
権力の前には理屈も通らないし、学問も無力である。
”長いものには巻かれろ”という格言?は、日本のそういう歴史的な現実からきた言葉なのだろう。つまり戦うことが不可能であれば権力の言うままににするしかないということだ。
だが、これも当然に間違いである。
やはり馬鹿になって戦うのが人間のあるべき姿だろう。だが、どうやって?