昔は、数多くの人の目に触れる文相や発言というものは、
いったん編集者の手を経て、そのあとで印刷されるなり、放送されるなりしたものだ。
編集者が完全に公正とも思わないし、
それはそれで問題があった。
しかし少なくとも野放しではなかったし、数の力で押し切ることができるものでもなかった。
そこにはほどほどの理性があった。
文章を提出して、不適切であれば戻されて、再度提出になる。
そのようにして社会の中で恥ずかしくないものに鍛錬された。
手紙でも同じで、一晩かけて書いたとしても、夜の間は自己愛的すぎたと、
次の日の朝、理性が戻れば判断ができたものだ。
現在、ネット社会や携帯ではそのような「考え直し」の機会がない。
これは麻生総理の発言と同じ構造である。
編集者のチェックもなく、(これは検閲がないという利点でもある)、
自分の理性や道徳心による検閲もない、(これは自己抑制という検閲がない点でよいこともある)、
だとすれば、考えの足りない答案があふれるはずで、
何もいい考えがないのにただ書き込みたいだけの人も書き込んでいる。
試験であれば零点の答案も二、三行の幅をとる。
そのせいで、傾聴するに足る意見が埋もれてしまい、
その点では事をうやむやに曖昧にする圧力として働く。
ネット社会の特性として、まず最初は、
どんな意見も公平に同じ平面上に同じ重みを持つ一つの意見として並べられる。
そのあとでクリック数やリンク数などで重み付けがされて、検索サイトでの順位が決定される。
検索会社は順位には責任を持たないわけだが、
ルールを決定した時点ですでにかなりの責任を負っているはずである。
未熟な意見も言えるということは、
典型的な未熟な意見を目にすることができて、
反面教師として学ぶことができるということである。
それだって悪いことではない。
しかしたいていの賢い人は忙しいから、長い時間をネット社会への参加に割いているわけにはいかない。
そこである程度暇な人がネット社会での主な活動家になる。
それもまたそのようにしてみれば意味のある情報であるが、
急いでいるときには情報の閲覧性を悪くする要因である。
麻生首相はいかにも現代の人らしく、
ネットの掲示板に書き込みをしている感覚で日々の発言をしているようだ。
それでも首相になれたのは一つの才能だった。
しかし首相として仕事ができるのかといえば、また別の話になる。