論理の基盤さえ崩れている

人間が思考を共有するとき
論理が基盤になると信じられてきた
ギリシャ時代からである

対立するものとしては信仰があり熱狂があった

カーニバルの場合には論理というよりも熱狂なのだろう
熱狂の論理と呼べばそこにも論理は貫徹しているに違いないが
人間は熱狂の論理を熱狂と呼んでいるのである

しかし現代になって
論理を尊重する者はいない
ルールのないところで闘争が演じられている

知恵のある者は身を守るため戦闘に加わらない
あまりに野蛮だからだ

どだい、論理力を確認するテストが進学の振り分けに利用されているのはとてもおかしい
それはどの人にも等しく分有されるべきもので、結果において相違はなく、
総体において一致できるはずのものなのである。

記憶力の試験で差がつくのなら、偶然の要素がある。
しかし論理の展開において差がつくことは論理的にあり得ない。
あるとしたら、それは未熟なのであり、社会に出てはいけないはずなのである。
何しろ憲法は、論理において未熟な国民を想定していないのだ。
理性はすべての国民に等しく分有されているとするのである。

だから話も通じるのだし、「議会」も「投票」も成立するのである。

それなのに現状では倫理力において差が歴然とある。
たとえば麻生、安倍において論理力が極端に弱いと思われる。
国民に等しく分有されているはずであるが、
これはどうしたことなのか。

阻害要因を取り除き、
理性の代表が国会で論戦を戦わせる。
そして唯一の結論に至る。
そのような範型をいつも追い求めて欲しいものだ。

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