堀田善衞「ゴヤ」12

しばらく間があいてしまったが、継続。

〈引用〉スペイン・ゲリラの、勝利後の運命は実に苛酷なものであった。
●勝つということが何を意味するのかの問題。
たとえば、少し脱臼した連想を記せば、
無意味に肥大した冠を振りかざして、メスを獲得した雄の鳥。
子供を育てて長生きするという目標を立てるなら、とても馬鹿なことを次々にしている、現代人である。

〈引用〉版画集は、特にゴヤの場合、普通の美術品を見るように見るものではなくて、それはむしろ読むものなのである。古典主義時代の絵画の大部分もまた図像学上のさまざまな約束に従って、見るよりも読むものなのであった。読む美術というものもまた、今日では消え失せてしまったのである。
●読むという感じは実によく分かる。今日は川居玉堂の絵をまじまじと眺めていた。絵を見ることは体験することである。
積極的に関わって、「読みとる」ことができるはずなのだ。
咀嚼力、吸収力が強くないと、それはできない。
むしろ現代の文化は、過剰に優しく分かりやすく説明することを目指していて、
それが大衆の情報読解力を著しく低下させている。
読み書きができるということが、結局は、統治者の言いなりになるということだったのかと
思ってしまう。
本日投票の都知事選は石原氏の勝利。なぜだ?
選挙というものの、真の目的と、現在の制度とが、ここまで解離してしまったということである。

徳川時代に生類哀れみの令〈だったと思うがはっきりしない〉を、何度も何度も繰り返し交付して立て看板を更新し続けた。なぜなら、何回やっても無視されたから、その上に何回も続ける必要があったという。
つまり、その時代には、大衆は、統治者の言いなりになる回路がなかった。
現在は回路ができている。まずテレビが大きい。
そしてかろうじて読み書きできるということが、被支配を容易にしている。
愚かな話なのである。

〈引用〉われわれはただ名目だけのキリスト教徒である。その証拠にわれわれはイエス・キリストの広大な正義の法廷よりも、異端審問所の地下牢の方を恐れている。

●そうです。そのとおり。キリスト教を解説してあげると言って、異端審問観は権力を手にしてしまう。そんなものだ。何一つ、信じるに足るものはない。
信じることについて最も分厚い本を出している教会が率先して徹底的に人をだます。
病気について最も詳しい専門家は、病人から金を搾り取る。
正義について語ることの好きな弁護士は最も正義の定義に遠い種族である。
●実際、イエス・キリストがいまこの世に現れたとして、多分、有効な活躍はできないだろう。
そしてまず第一に、キリスト教について、反撃を始めるだろう。

〈引用〉○ゴヤの反教会、無神論的傾向に、研究者たちは閉口している。(そのことについて、いろいろに言いくるめて、ゴヤはすばらしいキリスト者であったと論証しようとする)カトリック教徒というものは、それだけでも一考に値する。
●日本のキリスト教徒という人たちは、特有の視野狭窄病にかかっているようだ。たとえばブッシュならば、日本にいれば原則のない多神教に、イスラムに生まれればアラーの神を崇拝、といったところだろう。日本にいてキリストをあくまでも信仰する人たちの精神は、実に特有のものがある。