新国立美術館にてピカソ展-2

新国立美術館にて巨匠ピカソ展、もう終わってしまうのでかろうじて出かける。
雨と風が強く銀杏の葉が大量に降り散っていた。

傘をさして出かけ、バス停でバスを待っていた。そのバス停には屋根があったのだけれど、
先頭付近の人がずいぶん間を開けて立っていたので
最後のほうの人は屋根の下に立つことができない。
お年を召した方であるが、詰めればいいのだが、
そんなことは思いつかないようで何か話している。
風もあったので雨の中で傘をさして待っていたのではひざから下がぬれてしまうので、
隣にあって、違う方向行きのバス停の屋根の下で待っていた。
程なくバスは来て、乗ることができた。
公衆道徳に鈍くなっているのは若者だけではないのだ。

バスに乗って東京の街を見る。
不況だと思うからか、テナント募集とか閉店とかの張り紙が目立つような気がする。

バスの中では老齢のご婦人方がお話をしている。
聞くともなく聞いていたが、敬語とか丁寧言葉が身についているようで、
聞いている方がもどかしくなるくらい冗長なのである。
これが習慣の力というものであるし、それらの言葉で間合いが取れる分、
次の言葉を考える余裕ができるのだろうと思う。

ひっきりなしに続く噂話である。よどみなく話すのは脳がしっかりしている証拠だ。
こうして友人同士で会って、話を交換し、また別のところで、そういえばね、と話し続けるのだろう。

ご婦人方のファッションは確かに傾向があり、やはり近年の流行を反映しているようだ。
頭髪にしても染めているし付け毛はするし、また入れ歯にしてもそのようで、
眺めていると全身フル装備の半分サイボーグのようなものである。

どんな人生を送ってきたものかと考え、
一方で、Tシャツにジーンズ、入れ歯でもなくコンタクトも入れていない、
生き物として、そのままの状態に近い人を思い出していた。

おばあさんは広尾の日赤下で降りた。
このあたりの人なのだろう。

降りるバス停もはっきりしなかったけれど、
見当を付けて降りてみた。だめだったらタクシーに乗る。
バスから降りてどちらに歩けばいいものか、
六本木のあたりは地理がよく分からないのだが、
見上げるとヒルズが見えていたので、それを目印にして、
六本木の交差点はあのあたりかと見当をつけ、それならば
新国立博物館はこのあたりだろうと歩いてみる。

誰かに道を聞きたかった。暇そうな人たちが見えたので、前まで行ったら、
アメリカ軍の施設だった。面倒なので聞かないでそのまま通り過ぎる。
偶然、美術館が現れ、ほっとする。こんなに近かったとは。よかった。
なんだか自分の運を使い切ったような気分にもなる。
こんな場面ではもう少し苦労してもかまわなかった。

この時期は大半が日展の展示のようだった。
券売り場ではなかなか進まない。
各人が学生証を見せたり、何かの割引券を提示したりして、
また、都内の美術館に共通の何とかなど説明を受け、
説明するほうも長々と続け、そんな様子を眺めながら、順番を待つ。
人生は待つことなのか。

ペアで来た人たちは、二人で並んでいると人と、
一人は行列から離れて待っている人とがいて、
私だったら行列から離れて待つだろうと思う。
普段からずっと一人で行動しているので関係ないことであるが。

ペアでピカソなんか見て面白いのかなと思ったり。
傘を収納し、手ぶらになった。
日展の前を通り過ぎて、ピカソの展示にたどり着く。

やれやれ、ここ数ヶ月、行かなくてはと思いつつ延期していたピカソである。