自己愛が児童期から青年期にかけてどのような道をたどるのか、見ていく。
主に親によって形成された児童期の自我理想は、集団生活の中で様々な価値観
に触れることによって疑われ、青年期の新たな理想が構築される。
それは親の理想を反映したものではなく、集団の理想を反映したものになる。
この時期にたとえば、国家的な目標として、工業化や戦争などがあると、容易
に同一化が行われ、固い理想自我が形成される。それは疑い得ないものとして
刻印されるので、個人としては迷いがない。宗教国家でも同じだろう。
日本でも戦争時代にはそのようにして理想自我のあり方が疑いなく迷いなく決
定されていた。また、軍国主義に反抗する側の理想自我も、疑いなく明らかに
価値のあるものと信じられ、投獄されることも、理由のあることであった。
ところが、現代のようになると、国家をあげての価値ある行動などというもの
はあまりない。時々、環境問題とか、エネルギー問題で、「不都合な真実」
「かけがえのない地球を守る」などと掲げられると、それだけは疑いようがな
いなどと、受け入れてしまう人もいるのだが、時がたてば、それらのメッキも
あげて、やがて、個人的な小さな幸福の範囲内に収縮するのであって、理想自
我が集団の理想を取り入れてそのままアイデンティティとするといった、昔の
タイプの、「幼児的ナルシズムを克服して、集団に肯定されるアイデンティテ
ィを獲得する」という図式にはなかなか至らない。国家で指定してくれた方が
ずっと方が楽なのであるが、知的な誠実さはそれを許さない。
そのような場合、青年期になって、自分で自分の価値を支えなければならない
のだが、これが難しい。
確固たる理由がある場合には、いつでもそれを信じていられるが、疑いつつ必
死に守ろうとしている場合には、信念は不安定で、もろくなる。自己について
の極度の過大評価と全体的な自暴自棄の間を揺れ動くこともしばしば経験され
る。オール・オア・ナッシングの一つの形である。理由のはっきりしない誇大
感の場合、他者からの過大な賞賛を要求する場合があり、その賞賛が不足であ
った場合には、傷ついてしまい、時には全体的な否定に至ることもある。
子どもの頃に親が高くセットしてくれた自己評価を、青年期にいたり、同じよ
うに高く保つには、一貫した合理的理由が必要であるが、現代社会では、多様
な価値観の中で頼りなく生きているのであって、誰でも迷わざるを得ない。宗
教的世界とか、芸術とか、会社とか、性的価値とか、この社会のなかの部分集
合の中で、部分的な価値観をほぼ全部と見なして安定するしかない。
高くセットされたものを固いままに保つにはそれだけ高いエネルギーが必要で
あり、自分で供給できないことが多く、他者からの賛美を必要とする。しかし
その賛美も足りないことが多く、足りないときには逆に傷つくことになる。
このようにして、「自己評価の高さ+不安定さ」が形成される。高いから不安
定にならざるを得ない面もある。
自己評価の高い人ほど、他者からの賞賛を必要とし、しかも、それは賞賛の程
度としてハードルが高く、従って不足のことが多い。また、他者の賞賛に常に
敏感であり、そうなると、現実に対して適応的とは言えない事態になる。他人
の思惑に過度に傷つく体質になる。
他者には関係なく、自分で自分を賞賛し、自己価値を信じられればそれは局所
的には問題がないのであるが、それはしばしば盲信であって、常識があれば、
難しい。所詮は社会的な動物であり、賞賛は他者からの肯定であることが必要
である。
他者の延長として、超越者を設定し、それ故に安定する構造も考えられるが、
現代日本では通常かなり難しい。