レクリエーションには
エンジョイやアミューズとは異なる
楽しんで終わるだけではない
気晴らしで時間が過ぎるだけではない
「自分が変化する」要素があるように思う
人は人格を創りつつ生きている
自分の人生の内容を創りつつ生きている
それが「表のアイデンティティ」である。
たとえば会計しをしていてビジネス・キャリアを積み上げている。
人脈も手当てしている。
必要な教養も仕入れている。
そんなことも、ふと完全な人生ではないという思いにとらわれる。
何か満たされない。忙しすぎるし、それが自分の全部ではないと思う。
人生の選択に当たっては、
ひとつを選択した時にひとつを捨てている。
会計士を選択した時に、
音楽家を捨てたとする。
そんな人が山小屋にこもって、
楽器をいじり、多重録音しながらCDの一枚でも創って、
山を降りてくる。
そのような場合、
「表のアイデンティティ」と相補的な関係にある「裏のアイデンティティ」があり、
それは一時的で可逆的なものである。
山を降りれば、すっかりもとの自分である。
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生きられたかもしれないもうひとつの人生に郷愁を感じる。
そこで人はレクリエーションの時間を持つ。
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レクリエーションには「気分転換しましょう」という表現では不十分な何かが含まれていると思う。
歴史的に考えてみると、
村には祭りがあった。
祭りの機能としていくつか考えることができる。
1.抑圧からの解放。立場を逆転しての開放。カーニバル、フェスティバルとの呼び方はこんな感じがする。酒が関係するときもこの方面が強いように思う。
2.成人式などの通過儀式や結婚式などの認知の儀式。
3.村で一番の勇者を決めるとか、村で一番の牛を決めるとか、「表のアイデンティティ」に関する機能。
4.普段はぱっとしない人が歌合戦でヒーローになるなど、「裏のアイデンティティ」に関する機能。
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レクリエーションはもう一人の自分になることである。
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ごっこ遊びが近い。
違う役割を生きてみる。
大人になってからはごっこ遊びもつらいので、
8丁目に行って、擬似恋愛をして擬似夫婦の会話などをしてみたりする。
ごっこ遊びはすべてが人格水準退行的とも限らない。
飲み屋でやたらと賢い賢者のように振舞ってみたりする人もある。
ごっこ遊びにしても、
将軍の役を引き受けたりすれば、
それなりに人格水準を高めて演じることになる。
苦渋の選択を演じたり、泣いてばしょくをきったりもする。
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子供を育てる過程で子供とごっこ遊びをしたりして、
それもまた人格のレクリエーション・再創造になるようだ。
いったん子供と同じ年齢まで退行して
子供と遊んだり絵本を読んだりして
それは精神療法的な効果をもたらす
子供を育てながら
自分をもう一度育てることになる
子供を育てるほうはクリエーションで
自分を育て直す方はレクリエーションになる。
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一時的で可逆的な別のアイデンティティがどうして存在した方が良いのか考えると、
やはり人間は人生の中で可能性を捨てるものだからだと思う
捨てた可能性を懐かしみ
一時的に生きてみることが
心の安定に有益なのだろう
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映画を見た時に
確かにこのような人生がありうるのだと考え
捨ててきた可能性に思いを致すなら
心の再創造のひとつの形になっている
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表の世界では捨てた可能性を嘆き悲しみいとおしむことは子供じみている
だから多少の退行が必要なことが多い
お酒であったり
宗教的環境であったり
母性的なものとの接触であったり
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一度書いたものが消えてしまったので
もう一度書いているのだが
ぜんぜん似たものにならない
不思議なものだ
どこに向けてもピントが合わないように思う