採録
4、農産物保護と自由貿易
19世紀はじめにイギリスの経済学者ディビッド・リカードによる比較生産費の説明以来、自由貿易は貿易にかかわる国のどちらにとってもよりよい生活のためになることが認められてきた。このことには、ほとんどすべての経済学者が納得している。
これは単に、輸入や輸出という貿易活動に従事する人びとにとって都合が良いというのではない。そのどちらの経済もが、貿易によって可能になる国際分業によって、得意な産業に労働を特化することができる。それによって両方の経済の総生産力が向上し、どちらの国民にとっても福祉が増進されるということなのだ。
とするなら、自由貿易に反対する人はいないはずだが、実際には多くの人びとが自由貿易に反対している。特に農産物の保護は、日本に限らずEU諸国をはじめ、アメリカを含めてほとんどの国で実施されているのが現実である。
この章では、外国産の農産物の輸入を制限する、日本の貿易制度について考えてみよう。
外国産の安い食材
各種の農産物の輸入関税について、2005年11月7日付の日本経済新聞の記事を参照して考えてみよう。関税は輸入額に対して賦課される税金額の割合で表されるが、WTO方式での試算によれば、コメには778%(実質的には禁止)、小麦には252%、バターには482%、砂糖には325%、牛肉には50%もの関税がかかっている。こんにゃくやえんどう豆などにはもっと大きな関税がかかっているが、それほど家計には影響はないので、ここでは日本人の食卓にもっとも普通に関係するものをあげてみた。
この農産物への関税率というのはWTOの方式に従って計算したというもので、実際には例えば小麦や豚肉には差額関税がかけられており、関税率が決まっているわけではない。
差額関税というのは、国内に輸入される農産物に対して、国内産の基準金額と同じ価格になるまで税金を負荷するというものである。小麦の生産には麦作経営安定化資金という名目で60キロが8000円になるように関税かかっており、ウルグアイ・ラウンド合意によって豚肉は1キロ当たり410円になるように関税がかけられているのである。
とはいえ、付け加えるなら、日本の農産物の平均関税額は12%であり、アメリカの6%オーストラリアの3%などと比べれば高いが、しかしEU諸国などの20%、スイスの51%、ノルウェーの124%に比べればはるかに低いのである。またほとんどの途上国は農産物にひじょうに大きな関税をかけており、日本の農業保護が行き過ぎであるとまではいえない。
しかしここでは、そういう相対的な関税の多寡を問題にしたいのではない。なぜなら、日本の農産物関税は富士山型になっており、コメや麦、牛肉や豚肉などの生活にもっとも直結するような品目にひじょうに高くなっているからである。このような関税がかけられて大きな損をするのが、一般の低所得家計であることは間違いない。
日本での主食といえば、コメを炊いたご飯であり、多くの家庭では同じくらいに小麦を原料とするパンやめん類も食べられているだろう。低所得の家庭であればあるほど、全所得における食費の割合であるエンゲル係数は上がり、フルーツなどよりもご飯やパンなどの割合が高くなる。
マンゴーやパパイヤなどの奢侈的な農産物にかけられる関税は高くはないが、そういった農産物関税はあってもなくても、あまり低所得の人たちに大きな影響を与えることはない。それにくらべて、コメや小麦粉の関税が高ければ、所得の低い人びとの被る金銭的な影響ははるかに大きい。
小麦と小麦粉の価格が40%になり、コメは14%になるのなら、豪華とはいえない食卓の食費が現在の半額になることは十分にあるだろう。あるいは食べるもののメニューによっては、それ以下になることも考えられよう。
農業従事者だからといって経済的弱者なわけではない
こうした農産物に対する関税や輸入規制は、これまで様々な理由から正当化されてきた。これまでもっとも強力に支持されてきた主張によれば、「日本のような島国での農業生産性はどうしても高くならない。だから社会的な弱者である農業従事者を、外国産の農産物の流入から保護する必要がある」というものであったように思う。
確かに農林水産省の公式統計である農林水産統計を見ると、2005年度の農業従事者における平均的な農業所得はおよそ124万円でしかない。これは農業所得としての398万円から、必要経費としての274万円をさし引いたものである。これを見ると、農業に従事する人たちがおしなべて低所得であるように感じるだろう。
しかし、この数値は、日本では農業を副業とする第二種兼業農家が圧倒的に多いためである。農産物、特に主食としてのコメや麦などが保護されているために、それらを作る兼業農家が多くなり、ますます農業の全体としての生産性を下げてしまっているのだ。
農家における農外所得は219万円である。これらを足し合わせると、農家の所得総額は503万円になるが、これより低い所得階層にある世帯はサラリーマン世帯においても決して少ない数ではない。
ここで農業という産業が他の製造業にない特別な「何か」を含んでいるという考えを別にしよう。原理原則論からいえば、生産物が豚肉なのか、あるいはネジなのかなどという特殊な事情によって、同じ所得を得ている世帯、あるいは人びとが国家から別意に取り扱われることなどが倫理的に許されるはずがない。
同じように働く人びとが同じ所得をえているのであれば、基本的に同じような取り扱いを受けるべきである。これは常識的な公平感覚からくる当然の要請だろう。現に課税率などは、こういった取り扱いを受けている。
しかし、農産物に関しては、この原則はまったく当てはまっていない。なぜ麦の関税率が252%なのか、あるいは砂糖は325%なのか、というような問いに対しては、もちろんそれぞれに政治的な経緯はいろいろとあっただろう。しかし、そのような数値を正当化するような要素はまったく存在しない。まさにその場しのぎの「場当たり」な政治的対応が、変更できない制度となって我われの生活を全体として窮乏化させているのである。
このような場当たり主義は、豚肉には国内価格を固定するための差額関税制度が適応されるのに対して、牛肉などには通常の関税がかけられているという方式にもあてはまるし、それらへの課税率にも当てはまる。これらのまったく理由のない制度が既得権益となってしまっているのである。
私には農業が何か特別なものであり、特段の政治的な保護に値するという考えにはまったく賛成できない。しかし仮にこの点については譲歩して、農業を保護するべきだという考えをとるとしても、現行の制度にはあまりにも大きな問題があると考える。
関税と直接補助のちがい
日本で現在行われているような農産物の価格支持制度の根本的な問題は、これから農業をしようとする人間に誤ったシグナルを送ってしまうことである。単純な国際価格の比較によれば、そもそも豚は日本で飼育されるべき効率性を満たす動物ではないということを意味している。しかし、差額関税によって1キロが410円に固定されていれば、これから農家になろうとする個人や農業法人にとっては豚肉は1キロ410円で売れるものだとして設備投資をし、さらには飼育の専門知識を獲得してゆき、将来に向けての政治圧力となってしまう。
これに比べると、養豚業者への一時的で直接的な補助金は、さらなる養豚事業への参入を人々がしないという意味において、長期的にはより望ましい。現にほとんどの農業経済学者とはじめ、WTOやOECDなどの中立的な国際組織は長い間そのように指摘し続けてきており、その考えにそってEUなどでも政策を徐々に変更してきているのである。
例えば、日本よりも合理的な見解の強いアメリカでは、基準価格と市場価格の違いを農家への直接補助として支払っている。またEUでも、東方への拡大に向けて直接支払い制度に切り替えてきた。
しかし、こういった農家への直接的な資金の提供は、民主党が主張しているものの、容易には大きな政治的な手段とはならないだろう。なぜなら、それらは政策として望ましい透明性をもっているがゆえに、有権者から見たコストがはっきりしすぎて、予算に盛り込むことに反発があるからである。
法律を制定して輸入量や輸入価格を規制したり、あるいは差額関税を課したりしても、多くの人の反感を買うようなことはない。被害者は一般消費者であり、数多く存在するが、一人一人にとってそのような政策が採られることからくる被害はいくらなのかはっきりしない。これは政治家やあるいは政党にとって、きわめて都合がいい状態だ。一人当たりの被害額もはっきりせず、それらを知るためのコストもかかるため、被害を受けているという認識もひじょうに薄くなるからである。
反面、直接的な補助のためには予算をつけて執行する必要がある。予算案を通す過程では、援助の規模の適正さについて、はるかに多くの注目がなされ、審議会から国会の委員会、さらに本会議におけるまでの議論がなされる。また国民一人当たりの負担額もはっきりとせざるを得ない。とするなら、これは政治家にとって都合のいい方法であるはずがないだろう。
よって、直接的な補助は、政治的な目的を達成するのに理想的なはずだが、現実には政治によっては使われにくいことになる。国民の一人当たりの損失ははっきりしないために、その算定をすることも難しくなり、かくして多くの人びとは被害に気づかないままに永遠に生活し続けることになるのである。
このような政治的な決定は、いかなるリベラリズムの文脈においても肯定することはできないだろう。しかし、我われの持つ「政府が何かを政策として行うのは、当然なのだ」というまさにリベラルな感覚が、各集団の利益の対立とそれを集票に生かそうとする政治プロセスに落とし込まれれば、こういった結果を生み出しがちになる。
食糧自給率と安全保障論
日本の食料自給率の低さは、長い間多くの人が問題視してきた。実際に農水省の公式統計でも、日本の2005年の食料自給率はカロリーベースで40%でしかない。そして、日本は世界最大の農産物輸入国である。
これを受けて、自民党の政策においては、これまで一貫して長期的な食料自給率を高める旨が記されている。また野党民主党の代表である小沢一郎も、同じように自給率の向上を政策として掲げている。この点では共産党も同じであり、おそらく大きな政党で国内の食糧自給率の向上を政治目的としない党は存在しない。
しかし、私は食料自給率の向上などを国が目指すべきではないと考えている。端的にいって、国際分業がこれだけ進展した世界で、食料についてだけは自給するべきだというのは不可能であり、かつ有害だからである。
まず、食糧自給が不可能であるということについて考えてみよう。
日本のような平均所得の高い国民の必要とする食料の大部分を、無理にでも国内で作ることを考えてみよう。日本人の賃金が国際的にひじょうに高価であることからは、現在でも進んでいる以上に、農業はますます機械化されてより工業に近い状態になることが予想されるだろう。
つまるところ、農業をビニールハウスで使っておこなうためにはビニールという石油工業製品が必要であり、現在の収量を維持するための大量の化学肥料を散布するためには、結局は石油が必要である。あるいはコメを田植え機で植えて、コンバインで刈るというのであれば、それらの農業機械が必要となり、それは農産物を工業製品の助けを借りて作り出すことを意味する。さらに機械を動かすためには、結局のところ動力源としての石油が不可欠である。
確かに名目的には食料自給率は、どこまでも上昇させることができるかもしれない。しかし、それらの農産物を作るために石油や鉄鉱石を輸入しなければならないのであれば、「食料」自給率は高まっても、本質的にほとんど意味がないだろう。日本のエネルギー自給率はわずか6%程度であり、そのほとんどは水力発電なのである。
この議論で明らかになるのは、農産物の代わりに石油などが輸入されるようになるだけなのであれば、それは真の意味での自給率を高めていないということである。実際にこのような政策をとれば、広い耕作面積を使うことが効率性を高めるような農作物、例えば、コメや麦などはひじょうに非効率的に国内で生産されることになる。そのために、日本人の実質的な所得は、その分だけ下がってしまうのである。
真の意味での自給率を高めるのは、日本のような天然資源のない国にとってはそもそも不可能なのだ。またこれだけ複雑な国際分業が成り立っている現代の経済では、ある種の天然資源があったとしても、それだけでは自給自足経済を作ることはできない。
例えば資源大国でもあるアメリカでさえも、大量の工業製品を中国や日本、あるいはEUから輸入している。なぜならアメリカ人は日本製やドイツ製の自動車を高く評価しているからであり、それを貿易によって得られるのは自国民の福利厚生を向上させると考えるからである。日本人も素直にそう考えればいい。
これに関連して、次のテーマである「食料自給率を向上させるという政策は有害である」という考えに移りたい。これは人びとがときおり口にする、食糧安全保障という考え方と直接に関係しているものである。
食糧安全保障論を簡単にいうなら、「日本人の安全を保障するためには、他国からの輸入が存在しなくなっても問題がない状態にしておく必要がある」。あるいはもっと直接的に「他国からの食糧禁輸措置がとられたとしても、日本人の日常に支障がないようにする必要がある」というものだろう。
ハト派の人びとに対して、私は次のような論点を指摘したいと思う。
それはつまるところ、食糧安保論は国際協調主義に反しているという点である。この議論はそもそも仮想敵国が国際貿易に大きな影響力を持つということを前提にしている。ちょうど、戦前の日本が連合国によるABCD包囲網によって国家の存立を脅かされたように、その政治力によって禁輸措置が取られる可能性を論じているわけだ。
しかし、自国が禁輸措置に際してさえも強い立場に出ることができるようにするべきだという考えは、その発想自体が国際協調に反している。国際的な世論には基本的に従うべきだという日本国憲法の説くような国際協調の理念からいえば、食糧の自給率を高める必要などは最初からないだろう。
とはいえ、それは単なる理想論であって、現実の国際政治においては自国の国益を守るためには、国際協調に反する場合もあるという主張もありえるかもしれない。しかし、さしたる緊急性も見当たらない現代社会で、そういう危険を強調すること自体が単にナショナリズムをあおっているだけなのだ。
予見しえる将来において中国やロシア、あるいはアメリカでさえも、日本人が輸入する農産物を禁輸する可能性もなければ、脅すような話も聞いたことがない。前述したように資源のない日本では食料自給率を大きく高めることはもともと不可能なのだ。にもかかわらず、食糧自給率を高めるべきだという主張とは、不可能なだけでなく、つまるところ日本の経済を他の仮想敵国の経済から分離することを目指す好戦的で有害な思想なのである。
ひとつ付言するなら、共産党や社民党の政策はこの意味で完全に矛盾している。一方で国際協調と自衛隊の廃止を主張し、その反面、有事に備えての食料自給率という考えを持ち出すのは、完全に論理として破綻している。
実際には、多くの人びとは多かれ少なかれ国家主義的、あるいは愛国的だろう。農業を保護するというのは、地球環境保護やエコロジーと同じく、圧倒的多数が支持する価値判断である。よって、左派の政党でさえも、けっして他国との友好関係を重視して、農業保護をやめようとは主張しないのだ。
次にタカ派の人びとには、以下のような指摘をさせてもらおう。
前述したように、輸入食料のみが確保されるという考えは、食料を作るための石油その他の天然資源の輸入が確保されなければ、まったく意味を持たない。日本のエネルギーの94%が輸入されているのだ。
現実に安全保障を考えるのなら、原油の確保のために中東から日本まで、あるいは最低でもインドネシアなどの東南アジア太平洋地域からのシーレーンの制海権、制空権を確保する必要があるだろう。
とすれば、それは現在の脅威である中国の軍事力をはるかに上回る大きな軍隊を持つことを意味せざるをえない。農産物生産などにGDPの1,3%をつぎ込み、関税による消費者の被害をあわせればおそらく2%以上の生産力をつぎ込む反面、軍事費用にそれよりはるかに少ない程度の資源しかつぎ込まないというのは、全くただのナンセンスだ。
タカ派の人びとは食糧安保などという寝言を真剣に考えるのではなく、軍備の増強こそをいっそう主張するべきだろう。エネルギーを差し置いての、食糧自給による安全保障などという概念は、レトリックでしかなく、そもそも無意味だからである。
たとえば、食料自給率がほとんどゼロである現代の都市国家として、シンガポールがある。彼らは食糧安全保障を目指していないが、国民皆兵制をとり、比較的大きな軍隊を持っている。そのシンガポール人が、将来の食料の心配をしているという話は聞いたことがない。
そもそも現在の世界経済には、食料を供給できる国などほとんど無限にあるのである。小麦であれ、トウモロコシであれ、牛肉であれ、どこかの国からのある農産物が来なくなったとしても、国民がカロリーベースで飢えることなど考えられない。すべての国からの禁輸を受けるような異常な事態を除いて、ただ別のものを食べればよいだけなのだ。
実際、食料自給率は単なる杞憂である。たとえば、東京都や大阪府の食料自給率は10%をきっているが、このことを誰も問題にしない。なぜなら、少なくとも日本国内にある食料が東京や大阪に送られてこないことなどはありえないと思っているからである。
国が違っただけで、すべての外国人が日本人に食料を売ってくれなくなるというのは、どう考えてもありそうもない、サピオの読み過ぎから来るバカげた妄想である。かつて、第二次世界大戦前に、日本はABCD包囲網によって、連合国かの物資の禁輸を脅迫された。しかし、当時と違って、現在の世界情勢はまったくの一枚岩ではないのである。
あるいは、実質的に日本にそういう脅しをかけることができるのは、現代の世界ではアメリカだけだろう。他国から禁輸されるという事態を考えるよりも、他国民との誤解や意見の相違を乗り越えるべきかを考えるか、あるいは自前の強力な軍備を持つほうがはるかに重要であり、実際の安全保障に役立つはずである。
農業を保護するのか、あるいは個別の農家を保護するのか
おそらく日本の農業で将来性が高いのは、トマトやレタス、きのこ類などの土壌を使わない工場栽培だけだろう。これはすでに実用化されているが、そこでは工場の生産規模と設備投資額の大きさからして、株式会社が主役とならざるを得ない。
全面的に株式会社による農産物生産を認めれば、今後は株式会社によって大規模経営が進み、農業の経済効率も上昇するだろう。農水省はこれまで、農地の賃借利用は、経営陣の過半数が農業関係者で構成される農業生産法人か農家にしか認めてこなかった。また、株式会社などの農業生産法人に対する出資比率も25%までしか認めていなかったのである。
戦前は、大地主や大手資本が農業を支配していた。この反省から、1952年に施行された現行の農地法では、「農地は耕作者のもの」とする耕作者優先主義を採っているためである。
しかし、農家を保護するのではなく、農業を保護するというのであれば、だれであれ農産物を生産することを奨励すべきである。株式会社の農産物生産を認めることによって「農家」は困るかもしれませんが、間違いなく「農業」は進展するからである。
現在の制度では、自治体が株式会社に農地を貸すことが認められているだけで、所有はできないことになっており、また返す場合の現状復帰義務等も課されており、あまり使い勝手が良い制度にはなっていない。本当に農業を振興したいのであれば、株式会社であれ、誰であれ、生産意欲のある人びとを全面的に応援するべきなのは明らかだろう。
こういった意見の高まりを受けて、政府の経済財政諮問委員会は、農業の競争力回復を目指して、2007年5月7日付で改革案を提示している。すでに埼玉県と同じ面積にまで広がっている耕作放棄地を減らして、農業の大規模化を図るのが狙いだという。
その内容としては、農家が企業に農地を譲る変わりに株式を受け取るという現物出資の制度や、農地にも20年超の定期借地権制度を新設するである。また、直接的に遊休農地を減らすために、遊休農地への課税を強化する案も検討されている。
しかし、よくこの内容を見ていただきたい。結局は、農地自体の取引は制限されたままである。一番やる気のある農産物生産者が自由に土地を買えるようにするという、もっとも単純で効果的な方法は相変わらず禁止されているのだ。これでは、今後も日本農業の凋落は必至だろう。
農業保護を全廃して
日本の主業農業従事者(所得の半分以上が農業所得である農家)の人口は、220万人でしかない。これは、日本人のわずか2%である。2%の保護のために、日本人全員のコメの価格が7倍になり、パンやパスタは3,5倍になっているのである。
こんなバカなことを続けるよりも、農家に直接補助を与えて廃業してもらったほうがはるかにマシである。生活扶助家庭はすでに100万世帯を超えており、年金生活者を合わせれば、年金生活をしているはずの70歳以上の人口も1800万人を超えている。これらの人びとは人口の20%をゆうに超えているのである。
農業従事者のことよりも、こういった貧しい人びとの生活を優先して、関税を即刻全廃するべきだ。どうしても、農業従事者を保護したのであれば、アメリカやEUのように農業従事者に対して税金から直接に補償金を支払えばいいだろう。
私個人の考えをいうなら、農業保護は完全に廃止されるべきである。
WTOの報告書でも、日本の農業生産はGDPの1,3%に過ぎないのに、そこには1,6%の補助がなされていると批判されている。実際、2007年度予算では米作には5兆円、麦作には1兆円の経営安定化予算が組まれている。
つまり、正味の生産よりも補助金のほうが大きいのである。おそらく日本では純粋に補助金なしでやっていけるような近郊農業以外、あるいはエコロジストに直売できるような減農薬の商品を除いて、ほとんどの農産物の生産をやめるべきなのだ。その代わりに工業・サービスセクターに移ったほうが、はるかに国民全体の平均福祉は向上することになるからである。
現在の農産物補助金の6兆円と、コメや麦、牛肉や豚肉その他の農産物関税が4兆円であるとして10兆円にもなる。主業農家の220万人に、この金をバラ撒けば、一人当たりおよそ500万円にもなるのだ。
一人当たり200万円を終身年金として一律に与えて、農業保護を全廃するほうがはるかに安上がりである。よって、私の提言は、まさに直接的に農家に一律、終身的に所得補助をして、それでも農業が好きな人だけに農業を続けてもらうというものとなる。
農業がもつ自然との調和という神話
最後に、農業は自然と向かい合う営みであり、その意味でもっとも自然なものであるから保護に値するという宗教的ともいうべき考えがある。これはこれで、一つの確立した価値観として認められるべきものだろう。
私はこれに反対をする気はないが、だからといって、すべての人がこの考え方の賛同者ではないということは強調したい。農業による国土の保全という表現と同じほどに、農業による環境破壊は深刻なのである。
OECDのレポートでも、「農業には肯定的な側面も多いが、地元の環境をむしろ破壊することも多いこと」が報告されている。レポートでは農業という産業を、客観的に検討することを求めてもいる。
農業は土から農産物を作り出すという点で、もっとも「自然」な産業であり、特別な保護に値するという意見を聞くことが普通である。しかし、私には食べるものが他の工業生産物よりも特段に重要だというようには思われない。
中国産の野菜の残留農薬がそれほど多くて心配なのなら、多少高くても国産品を買うのもいいだろう。実際に多くの、主に高所得の日本人が、国産品を安全であると認識して、プレミアムを支払っているのが現実である。
私はそういった考えは持っていない。農業生産物は他の工業製品と同じだと考えている。悪い薬を飲めばより大きな副作用があるし、悪い自動車に乗れば事故死の確率が上がるだろう。農産物以外にも日本人の人生に重大な影響を与えるものは数多くあることは自明なのだ。
農産物だけが特別な何かをもっているというのは、それ自体が宗教とでも呼ぶべき価値観である。外国からの低価格の野菜を低所得者が消費するのは、低所得者が安全面で高級車ほどではない軽自動車に乗るのと同じだろう。
人は高所得になるほど、危険を回避する価値が上がり、安全な農産物、安全な工業製品を消費しようとする。しかし、それらが何か特別な価値を持っているからだと考えるのは単なる誤解である。低所得の、あるいは他の用途にもっと資金を使いたい人びとが安価な輸入農産物を食べれば、農産物とは関係のない個人的な目標に対して、よりいっそう多くの資源を投入できるだけである。
安価な農産物によって、それぞれの人びとにとっての予算的な制約が減少することは、明らかに望ましい。日本では、こういう文脈での経済的な自由権は、これまでほとんど無視されてきた。しかし、政治活動による経済的自由の抑圧は、いかなるものであれ、個人の私的な目標の実現のためには望ましくないのである。このことは、ここで強調しておきたい。