「愛の流刑地」テレビ版

録画しただけで見ていなかった。
今日見た。

愛するために生まれたのだ。
愛の絶頂の喜びに包まれて死にたい。
そう語る。

一種の恋愛至上主義である。
日常に退屈しきっている種族には心地よいだろう。
なかなかそこまで覚悟はできないが。

一部の人にとっては、
愛もギャンブルも同じことなのだ。ドラッグも同様。
日常を破壊するという点で同じである。

日常を超越するものだからいいものだという視点はないようだ。
個人的には、居眠りしてしまいそうな退屈な日常から覚醒させてくれるものならば、
大抵のものは歓迎である。
留保をつけて考えておくと、確かに、恋愛に没頭する場合には、
妄想に近い場合が多い。
でも、「あまり」人に迷惑をかけないで、何かに没頭できて、
主観的には覚醒したと信じられるなら、
悪くないと思うのだ。

そして恋愛至上主義者は排除されて死に絶える。
残った人たちは、卑屈に妥協して生きる人たちで、
性欲と社会制度のすきまを何とか利用して生きている。
それは惨めだろう。

でも、まあ、それも好きでそうやっているわけだから、
恋愛至上主義者としては、そんな奴も許す。
ただ目覚めていないだけなのだ。
目覚めれば必ず恋愛至上主義者になるだろう。
だって人間はそのようにできているのだから。

最後の歌は倖田來未とのことだが、
なんとレッドツェッペリンの「天国への階段」と前半部分がよく似ている。
カバー曲かと思った。

さて、一言難癖をつけるなら、
やはりそのように深い愛に至ってしまった経過が描かれていないのだ。
その点が不満である。

深い愛は交通事故のようだという人もいて、
深い愛は必然だというともいて、
どちらの人も愛におぼれているのだ。

田舎だと、周りに親戚とかいるし、
その人の小さいころのことを知っている人もいるわけで、
そうなると、恋愛至上主義といっても、やはりすこし恥ずかしいのだ。

恋愛至上主義は都会によく似合う。