愛の幻想

万葉集をぱらぱらめくっていて思ったのだが、
現代人は愛の幻想が過剰なのではないか?

物語の中には、愛の物語が、存在するだろう。
それはいい。

ロミオとジュリエットは恋をするが、
それは瞬間の恋で、だからこそ、純粋で、恋のままでいることができる。
現実には、時間とともに、変質する。

ロミオとジュリエットが、結婚式をして、新婚旅行に出かけ、親戚に挨拶もして、仲人さんにご挨拶もして、新居を整え、貯金は底をつき、残業は続き、ジュリエットの肌は荒れ、化粧品代を節約し、ロミオの昼食代は700円以内となり、新聞購読を中止し、冬には風邪をひいてロミオは二日だけ会社を休み、ジュリエットは出勤を続け、その間に、ジュリエットの女友達とロミオは親密になってしまい、そのことを携帯をのぞき見て知り、けんかもしたが、お金がなくて別居もできず、お金がなくて離婚もできず、そのうちに傷だらけの二人になる。

現実の生活でどのくらい恋愛があるものかといえば、
あまりないだろう。
一瞬恋する、瞬間恋愛が、連続するだけだろう。
生身の人間は、恋愛の対象としては、エゴ成分が多すぎる。
知るにつれて、恋愛は醒める。
醒めないならば、幻想を抱いているのだと思う。

たとえば、誠実さだとかが、相手に求めるものだとしたら、
そんなものは、ありはしないのだ。
人間は自分が魅力的である限り、
さらに魅力的な異性を求め続ける。
釣り合うということはまずない。
相手にも自分にも適当に幻滅して、
そこではじめて、恋愛運動は停止する。

妄想でない限り、
相手に幻滅するのは必然である。
また、自分に幻滅しない限り、
次の恋愛対象を探し続ける。

肉体的な満足ならば、まだ相談にも乗りやすい。
精神的満足や、恋愛への夢だったら、
なかなか難しい。

現代は、愛への欲求が過剰なのだ。
夢見ているような愛は、現実にはありっこないのだと見極めて、
現実の利益をとれば、賢明である。
それができない夢過剰の乙女たちがいつまでも恋愛を妄想している。
妄想とは、現実に反する、訂正不可能な、信念である。