親切なクムジャさん 魂の浄化について

現代芸術は、解説をよく読まないと理解できないことがしばしばである。
それは暗号のようであり、暗号解読コードが必要である。
それはゲームのようであり、攻略本が当然前提されている。

スタッフはすべて揃っている。
ただ脚本だけが、まとまりに欠けている。

難解な短いショットをつなぎ合わせた構成になっている。
クリエイターとして冒険したのだと思う。
現代芸術のひとつだと思って、
解釈する作業に積極的に関わらないとおもしろくない。

復讐することと、魂の浄化は、根本的に相反することである。
だから話もうまくまとまらない。
解決すべき問題は、いかに復讐するかではなく、
復讐と魂の問題がどのように妥協できるかということだ。
赤いアイシャドーを付けているうちは、魂の浄化には至らないのだ。

クムジャもまた、娘については、罪人だと告白している。
娘は理由も知らずに捨てられて苦しんだということになる。

物事は、そもそもの前提が間違っていれば、
そのあとはすべて正しくても、間違ったままである。

そもそもの前提を説明しないから、釈然としない。

一般に、魂の浄化は如何にして実現されるか。
実現したためしがない。

どの人も、濁ったままで死んで行く。

分からないことが多い。
例えば、クムジャさんが警察の実地検分に臨む時。
刑事は最初クムジャさんの有罪を疑っていたらしいのに、
茶色の腕時計ベルトを示して、茶色い方のクッションで窒息させると指示しているようだ。
この少しの間に何が描かれたのか。

この映画で監督はアクロバットを披露しているようだ。
私にはそのアクロバットの意味が余りよく分からない。

少なくとも、私の関心は、
踏みにじられた魂の怒りと、自分の魂の救済である。

怒りを完全にはらすことはできない。解決はありえない。
時間が奪われてしまったのだから。

魂を救済することも難しい。
どうしたらいいのか分からない。
すべては手遅れだとも思える。

わずかにできることは、やはり、
離れて、幸せになることだと思う。
幸せになれば、思い出話も語れるようになるだろう。

古い言葉で言えば、不条理が描かれている。
感情のレベルでは、復讐をとどまることはできない。
合理性のレベルでは、復讐は不利益だと知っている。
この妥協の見いだせない構成が不条理である。

不条理を描く映画が、
不条理にできているのも、頷けることだろう。