自由でも平等でも腐る ホリエモンと生活保護

自由と平等は、現在の社会の仕組みを測定する指標である。
平等を重く考える人たちは
昔の社会主義であり、後の社会民主主義であり、
福祉国家志向であり、大きな政府志向である。
自由を重く考える人たちは、これが最近は流行であるが、
格差が広がっても、自由を保障した方がいいとの意見である。

政府というものが何をしているかといえば、
経済的自由を保証する制度枠組みを作ることと、
結果の不平等を緩和するための政策を実行することである。
自由と平等のバランスについては無限に組み合わせがある。
どの妥協点がいいかについて、
民主主義のプロセスが機能する。

考えてみれば、
ここに理想的な人格の人間がいるとして、
自由競争の中で利益を得たら、
そのあとは、利益を社会に還元したり、周囲の困窮している人を助けたくなるものだろう。
また例えば理想的な人格の人が政府の平等化政策に助けられ恩義を感じたとすれば、
今度はその人が社会や仲間のために何かを志すことになるだろう。

自由と平等の根元に正義の感覚や倫理の感覚や他人を思いやる心などがあれば、
社会制度をどのように設定したとしても、ある程度、いいところに収斂するだろうと考えられる。

逆に、自由と平等の調節中に、
自由の制度を悪用する人たち、平等化の制度を悪用する人たちが出現して、
「想定外」のことを実行してしまえば、
社会の側としてはひとたまりもないし、
仕方がないので後追いで制度を手直ししていく。

自由の悪用としては、必要もないのにライバル会社を合併してみたりする。
平等の悪用としては、生活保護ゴロのように、制度に寄生することがある。

こうしてみると、制度を考えるにあたって、
まるっきり腐った人間を想定していないとうまく行かない世の中であることが分かる。

腐っていない人間を育て守るのはやはり教育なのだろう。