このごろは、自分が書くことについてはやはり全く不満なのであるが、文章を読むことについては、かなり昔の感覚を取り戻しつつあるように思う。昔とは、私が大学院時代を過ごした頃のことだ。
当時は読書の中で筆者の言葉を味わいつつ、語りに乗って、ある瞬間に離陸し、ある時間は一定速度で空間を飛ぶ、そんな体験を持った。音楽の演奏をするように、時間を体験することができた。
その後私は社会の中で役割を持ち読書は青春期の習慣と割り切るようになった。細切れの時間をつなぎ合わせても読書の能率は悪く、没入する体験にまでは至らず、それならばいっそのこと、読書は要らないとまで考えるようになった。必要な情報を得るための読書になった。
日中にほとんどのエネルギーを費やし、精神労働をしていた。その他の時間はやはり休養が必要で、その場合は、映画など、やや受動的な態度でもすませられるものが適していた。読書は能動的なものなのだと思った。
ところが人生は私に再び読書の時間を与えてくれた。ここしばらく読書を優先する生活を取り戻している。読書は習慣であるから、すぐに昔のようにはならない。活字が滑ってしまうことが多かった。また、読書の質としても、きれいなひとかたまりの言葉を見つけて、桜貝を瓶に詰めるように、書き出して保存しておく、そんな時間が続いた。それでも私は楽しかった。仕事の時間に夢見ていた、読書生活の復活、それが実現しつつあるのだと思っていた。
谷川俊太郎の古いエッセイを読んでいる。
1950年代後半のものがある。言葉は古びていない。敢えてあげれば、「真空掃除機」という言葉があった程度で、言葉それ自体も、思考内容も、全く2007年時点で訂正を必要としない。
この本については、実に久々に読書の「時間」を体験しているのだ。谷川俊太郎がベートーベンについて書き、フォーレのレクイエムについて書いている。生活と詩について、書いている。青春について書いている。読書の中でフォーレのレクイエムを心のどこかで演奏し始める。
音楽を聴くことは時間を体験することである。圧縮もできないし、二倍速で読むこともできない。没入する他はない。谷川俊太郎の言葉に乗って、わたしは読書を体験する。
文章を「演奏」するのだとたとえてもいいだろうと思う。
言葉がきっかけとなり、私の中にある、複数の体験が、ひとつにまとまる。
あるいは、言葉が刺激となり、体験の構造が明らかになり、
また、体験同士の内的関連が明らかになる。
何という熟した体験なのだろう。わたしはこの時間に感謝する。