コラージュ論 総論2


  • 短歌の本歌取りはコラージュ技法に近い

  • 俳句で単語を並べるとコラージュ技法に近い

  • 切り抜いた写真と言葉の比較……例えばリンゴの写真を切り抜いたとする。その場合、具体的な色もあり、背景に何か映っているかもしれない、とにかく具体的なリンゴである。商品ならば、たとえば、カップヌードルという具体的なものである。それに対して言葉は抽象性が高いと一見したところ、思える。しかしそうではないかもしれない。「リンゴ」という単語はもちろん抽象性が高くて、プラトンの言うイデアに相当するものに違いない。しかし個人のイメージシステムの内部で言えば、「リンゴ」と「正三角形」の、たとえていえば「イデア」度はかなり違う。正三角形はやはりイデアにかなり近い。リンゴは各個人によってかなり違うのではないか。たとえばリンゴ農家の子供、フランスの子供、ブラジルの子供、キリスト教徒、それぞれで、リンゴにまつわるイメージの総体はかなり異なる。「リンゴという言葉」→「リンゴの写真」→「実物のリンゴ」と連なって、具体性が増し、個人内部のイメージの投影度が薄くなる。言葉の上で、「砂漠の砂の上にリンゴを一個置く」という場合と、具体的な写真のコラージュによって「リンゴの写真」を「砂漠の砂」の上に貼り付けたものとを比較すると、言葉で表現した方が、「抽象的」とも言えるのであるが、それは「個人の内部ではやはり写真と同じくらい具体的であらざるを得ない」はずである。だから、言葉によって喚起されるイメージと、コラージュによって喚起されるイメージとは、かなり近いものではないかと推定される。

  • 分かりにくくなった。「リンゴという言葉」と「リンゴの写真」を比較する。「リンゴという言葉」を提示した場合、各個人によって、百人いれば百通りのイメージがあるはずだ。それらの総体を「リンゴという言葉」は指し示している。集合論で言う、集合のようなものだ。それに対して、「リンゴの写真」はその写真を指し示す。ところが、個人が受け取る場合には、「リンゴという言葉」は、「リンゴのイメージの集合」をさすのではなく、「個人にとってのリンゴのイメージ」を指し示しているに違いない。そうすれば、「リンゴという言葉」と「リンゴの写真」の示すものの差は、集合論で言う、要素と集合の違いではなく、要素と要素という関係になる。

  • なお分かりにくい。