レム「ソラリスの陽のもとに」-5

1.
たとえば、私が誰かのことを考えると、その人が目の前に現れる。
その場合、想念の内には、その人の細部のどの程度までが含まれているか。
設計図のように詳細であるはずはないので、
想念のままであれば、ほとんど生きていることなどはできない何かである。
またたとえば、脳についてはよく分かっていないのであるから、分かっていないものがどうして想念できるのか、ひいては現実化できるのか、分からない。

1-2
外形が似ているだけで、内部の構造は全く別のものと考えることもできるのだけれど、
そんなことでは「似ている」ことを保証できない。


2.
複数の人間がいて、それぞれに、鈴木一郎のことを思い浮かべたとする。すると、想念が現実化する空間では、想念した人間の数に応じて、鈴木一郎は複数現れるべきだろうか?


3.
また、人間は自分について想念することもできる、その場合、もう一人の自分が発生するのだろうか。


4.
さて、ここから先は、昔の日記に書いたことだと思うのだが、書いてみる。


人間は自己イメージがあり、他者についてもイメージを持っている。
他者から与えられているイメージが、自己についてのイメージに比較して、重みがあるとは考えられないだろう。
眼力のある観察者はしばしば本人自身よりも、その人についてよく観察するものだ。


そのように自己や他者の抱くイメージを総合する形で、想念が具体化したら、どうなるのだろう。そしてその想念の間に矛盾する要素があった場合には、どのように現実化したらよいものだろうか。


多面体として構成する。観察者が故知なった場合に、観測値が異なってもいいはずだろう。


4.1
私がどのような人間であるかということと、私がどのような人間であると自分と他人によってイメージされているかということとは、どのような関係にあるのだろうか。


実体とイメージということか。観察者と独立して、実体は存在するのか。素朴実在論として、実体は存在すると仮定して、何の不都合があるのか?


5.
想念が現実化するとは、まさに心身医学の問題であり、人体の内部でならば、脳と神経系、そして人体各部とつながっており、また、ホルモン系や免疫系など、一応、通路はある。