目取真俊「帰郷」「剥離」「署名」

目取真俊「帰郷」
他の話が心理劇であるのに比較すると、冒頭に置かれているこの話は、
夢幻的で半ば幻想の体験のようにも思えるものだ。
話をつくるという点ではよくつくっていると思う。

「剥離」
これは学級崩壊によって小学校教員である妻が身体的・精神的危機に陥り、
それと連動する形で夫である中学教員が危機に陥る様子を描いたもので、
よく描けている。
しかしこれは「文学」なのだろうか?
この文章に目取真俊の刻印がどれだけあるのかといえば、どうだろう?
もちろんうまいし、的確である。そのゆえに、素直ないい文章になってしまっているのだろう。
それで悪いはずはないのだけれど。
直球が素直すぎて、模範的過ぎて、とてもいいのだけれど、多分、三振を取ることはできない。
もう少し汚いスピンがかかっていればいいと思う。


「署名」
これはなんとも不条理劇である。
不条理の中に陥れられた者の苦悩は実によく描かれている。
しかし一方、陥れる側の、動機とかメカニズムとか必然性とか、
そんなものが知りたいと思う。
それを提示していないから、不条理劇と呼んでいいものになっているのだろうけれど。

全体に、沖縄の風土の中で語られることの意味は充分にあると思う。
日本に生活している人は、テレビに出ているような抽象的なTOKYOの中で生きているのではなくて、
具体的などこかの土地で生きているのであり、
だとすれば特有の言葉があり特有の風俗があり、従って特有の感情と思考があるのだと思う。
それをすべて脱色して、成功するとも思えない。
リアリティを付与するには積極的に、土地や時代を特定することもいい作戦だ。
夏目漱石にしてもとても地域的なローカルな言葉である。
森鴎外のほうが歴史的に見てグローバルな言葉遣いである。
ただ、夏目漱石の言葉が後の時代には東京の言葉になり、
文章の言葉になっていったわけで、その点でローカルと単純にはいえないけれど、
でも本質的にはローカルなのだと思う。

沖縄の言葉で書かれる部分に、とても光るものがあり、深い響きがある、
言葉の語数以上の含蓄がある。

これには私の個人的な沖縄体験も関係していると思う。