朝日夕刊で、映画「主人公は僕だった」の監督、
マーク・フォスター氏のインタビュー。
映画は、死の宣告を受けた人間がどのようにして、
限られた人生を輝かせるかという主題。
長生きしても意味がない、細く長くではなく、太く生きようというわけだ。
心から何かを望む。
それに向かって強く生きる。
これらはいつの時代も通用する、創作の基本線だろう。
どの年代の人も、また、どのような人生の課題を抱えた人も、
自分の問題とダブらせて、そこから何かを汲み取るだろう。
宿命論や運命論ではなく、
力強く運命を切り開くこと。
運命と諦めることは怠惰である。責任逃れである。
あくまで強く立ち向かうこと。
その根底には、人生は悪くないという信念がある。
どうせ悪いものならどんなに努力しても仕方がないだろう。
何ものも恐れず生きる。
死に直面した人間の強さはそこにある。
死が具体的になってしまったとき、
地上のすべては空しい。
だからこそ、何も怖くない。
だめでもともとという心底の決意が生まれる。
さて、そのような普遍的な話題の傍らで、
現代人の特徴として、
携帯電話やメールに代表されるような、
便利な通信が、かえって現代人を孤独にしていると考える。
恋愛は体温をじかに感じるものだ、そして、
たしかな心のふれあいがある。
便利な通信では人間は「本当」には生きられない。
恋愛をモデルとするような、直接の体験が人生をくっきりとした、本当のものにしてゆく。
確かにそうだ。
人間は何万年も、直接体験をして、この現実を生き、子孫を残してきた。
その直接性を現代人はどんどん忘れている。
あなたはどれだけの時間をコンピュータと携帯に費やしていますか?
それを直接の接触に置き換えることはできませんか?
つまり、薄くて意味のない接触は控える。
濃くて意味のある接触だけにしていく。
そうすれば人生そのものはどんどん濃くなるだろうと思われる。
人間の生活スタイルには様々なものがある。
実際、「細く長く生きる」ことだけが目標で、
「サプリの類の情報に振り回され」、さらに周囲の人間にもそれらを強要し、
従わなければ関係を断絶し、
そのような種族がいるものである。
正直言って、その人たちが、突然死んでいたとしても、
誰も悲しまないし、生存に困ることもないのだ。
そのくらい、薄い存在なのである。
それはさらりとしていてエレガントな生き方だと感じる人たちもいるだろう。
一方で、そのような手ごたえのない人生はいやだと感じる人もいるだろう。
手ごたえのなさは、例えば、定期的に配信される、メールのような存在ということだろう。
特に目新しいことが書いてあるわけでもなく、
5年前の同じ季節の文章でも、何も変わりはない。
また、本人が体調不良なら、代筆者が何かを送ることも充分に可能である。
死んでいても、何も変わらないことにもできる。
そのくらい、存在が薄いのである。
どうしようもないくらい薄い。