ミルトン・フリードマンの言い分
1.ミナーキスト・リバタリアンとは
ノージックのようないわゆるミナーキスト・リバタリアン(最小国家論者)によると、正当化される最大の政府は、個人とその財産を物理的な侵害から保護するだけの政府である。彼らはそれゆえ警察・裁判所・法律・国防だけを供給する政府が望ましいと考える。この規範理論はレッセフェール(自由主義)の経済学と密接につながっている。レッセフェール経済学は私有財産と自由競争によって効率的な資源配分と(より重要なこととして)高い経済成長率が実現されるという理論である。
2.アナルコ・キャピタリストの発想
アナルコ・キャピタリストは最小国家論者のロジックを完全に退ける。そして逆に問いただす。なぜ(国家の)残りの機能も自由市場にゆだねないのですかと。アナルコ・キャピタリストは、自由競争をする企業が警察サービスを供給し、新しい裁判システムが企業間のトラブルを円満に解決し、そして慣習・判例・契約が実用的な法体系をつくり上げていく世界を思い描いているのだ。
神の見えざる手は、警察・裁判所・法律・国防にも及ぶだろう。
3.アナルコ・キャピタリストの考える法制度
アナルコ・キャピタリストの指摘によると、実際(英米のコモンローのような)現代法の多くは立法府から生み出されたものではなく、分散化された判事たちの決定から生まれたものである。(アナルコ・キャピタリストたちは慣習法への関心をクロポトキンと共有するが、彼の考えはずっと現代化・洗練化されることが必要だと普通思っている。)
実際、現代の国際社会で、主権国家の自由を制限するような上位機関は存在しない。それでも何とかやっている。
4.アナルコ・キャピタリストの考える警察
競争する数多くの警察サービスに各個人が加入するというのが考えられる。別々のサービスに加入する個人間の争いを平和に解決するために、各サービス会社は他社と契約を結んだりネットワークを作ったりする。別のありそうな市場構造としては、警察サービスが住宅サービスと「セット売り」にされるというのが考えられる。これはちょうど水道と電気が賃貸住宅とセットで提供されるのと同じであるし、今日ガーデニングやセキュリティがゲーテッド・コミュニティあるいは共同住宅の住人に提供されるのと同じである。
民間警察は平和的でありかつ個人の権利を尊重する強いインセンティブをもつだろうということである。第一に、仲裁に失敗することは相互に破壊的な武力衝突に発展するだろうし、それは利益を得るためにはよくないことである。第二に、企業はビジネスにおいて長期的な関係を構築したいと考えるだろう。そして長期的な利益を確実にするために、いつでも誠意をもって交渉したいと思うはずである。第三に、好戦的な企業はリスクの高い顧客だけを引きつけ、それゆえ異常に高いコストに苦しむことになるだろう。(医療保険などで有名な逆選択問題と同じである。高いリスクをもつ人々はとくに保険を好むので、保険業者が顧客のリスク度を見分けることができないとき、あるいはリスク度によらない単一価格が規制で義務づけられているとき、その保険料は押し上げられる。) アナルコ・キャピタリストは民間警察が今日のマフィアと同じであるという考え方をほとんど支持しない。警察ビジネスが法律で認められていて、かつ市場がオープンな場合、コスト優位性で負ける「犯罪警察」はそこから退出させられるだろう。 David FriedmanはThe Machinery of Freedomの中でこう説明する。「無政府資本主義社会が今ある社会よりもずっと平和であるだろうと予想するためにおそらく一番いい方法はアナロジーである。今ある世界で国の間を移動するコストがゼロであるとしよう。誰もがトレーラーハウスに住み、同じ言語を話す。ある日フランスの大統領が近隣諸国とのトラブルのために新しい軍事目的税を徴収中であること、またすぐに徴兵が行われることを発表する。彼は翌朝、平和だが空の領土を統治していることに気づく。人口は彼と3人の司令官、27人の従軍記者に減っている。」
5.アナルコ・キャピタリストの考える警察への反論への反論
アナルコ・キャピタリストはさらにこう議論する。マフィアは人工的なマーケットニッチでのみ、すなわちアルコール・ドラッグ・売春・ギャンブル・その他の被害者なき犯罪が禁止されるときのみ栄えることができる。ギャングたちは縄張り争いで殺し合いをするかもしれないが、酒屋のオーナーたちは普通そうしない。
6.アナルコ・キャピタリストの考える私的財としての法
政府のない社会を想像してみる。個人は民間企業から法律を購入する。(ここでいう法律とは law enforcement のことで執行=警察機能をも含む)。各法律会社は他の会社と常に衝突する可能性がある。もし強盗がわたしの財産を盗むと、わたしの契約する会社の警察官は犯人をつかまえるが、その犯人もまた別の法律会社(エージェンシー)と契約している。
このような衝突の問題が解決される方法は3つある。最初に思いつくものでしかし最も起こりにくそうなものは直接の武力行使だろう。すなわち強盗をつかまえようとするわたしのエージェンシーと、彼を守ろうとする彼のエージェンシーとの間のミニ戦争である。もう少しありそうなシナリオは2社間の交渉である。戦争は出費がかさむので、各エージェンシーは顧客との契約の中につぎのような条項を入れておくことが考えられる。つまり悪事に対する正当な処罰にかんしては当社は必ずしも責任を負えませんよと。衝突が起きたとき、犯人が有罪かどうか、また犯人を引き渡すかどうかは2社間の話し合いによって決められる。
だが、より魅力的でしかもずっとありそうな方法は、エージェンシー間の事前の契約である。このシナリオのもとでは、衝突の可能性のある2社は、裁定会社(私立裁判所)を通して問題を解決する。そして問題を処理するルールにかんしては暗黙あるいは明示的に合意しておく。
このような社会においては、法律の執行と法律は市場によって生産される私的財である。法律の執行はその専門エージェンシー(警察)から直接顧客に売られる。法律自体は裁定会社で生産されて警察に売られる。警察はサービスの一つとしてそれを顧客に再販するのである。
結果的に生じる全体の法システムには、多くの異なるコード(法典)が含まれうる。対立を扱うルールは、双方の警察が同意した裁定会社によって決まる。法の統一性への需要も多少あるだろうが、論理的にはどの警察のペアも異なる裁定会社で合意しうるし、異なるコードのもとで裁かれうる。
じっさい全体の法システムはもっと多様なものになりうる。法廷で特別な手続きが要求されるような社会における、ある小集団について考えてみよう。たとえば法廷において形式的・慣習的な宣誓が求められる社会で、そういう行為を禁じる宗教セクトである。そのような宗教セクトは独自の警察をもち、法廷規則の変更を彼らに交渉させるかもしれない。あるいはそういう宗教セクトのために、規則変更の代理交渉を売りにする警察が出てくるということも考えられる。
上の例が示唆するように、このような法システムは潜在的にとても多様性がある。原理的にはすべての2個人間に異なる法律を適用するということが可能である。が、じっさいには交渉のコストや多様さのマイナス面ということにそれは制約されるだろう。すべての2個人間で異なるコードをそのつど交渉するというのはとてつもなく取引費用がかかる。よって2警察が、1つの裁定会社によって運用される1つのコードで同意する、というのがありそうなことになる。(上の例のようなことが起こったときは、ケースバイケースで裁定会社が判断する。)
法律の多様性はかなりのコストを伴う。たとえばエージェンシーAの顧客に強制できる契約条項が、Bの顧客には強制できないかもしれない。このことは企業が満足のいく契約を結ぶことを難しく高価なものにする。このようなコストは裁定会社に単一な法を採用するインセンティブを与える。それは(異なる顧客のいろんな要望から出てくる)複数コードを採用するインセンティブとバランスするまで続く。