母の心がわかって おそろしいのか

泣き面に蜂
降れば土砂降り
というように


ひとつの不幸は
二つ目の不幸を連れて来る


これは不運は重なるものだから諦めなさい
または
用心しなさいという意味であるが、
一方で、
ひとつの不幸があると、いままでは不幸でなかったものが、
問題と化して、あるいは、
潜在的だったものが顕在化して、
不幸になってしまうという事情をさしているとも考えられる。


会社でも家庭でも、それまではなんともなく普通にやっていけていたのに、
ひとつのきっかけで、実は問題があったとが分かってしまい、
そのあとは数珠つなぎのように問題が起こってしまう。


そんな例はないことではない。


小さな石ころだったものが、
地雷になってしまうような感じ。


ダムが干上がったら、
底から民家が丸ごと出てきたような感じ。

たとえば、親からあまり誉められないで、
優秀な姉と比較され続け、すこしだけつまらないなあと感じていた妹がいたとする。
人間不信の水域が上昇しているところに、


何かの拍子に、親が、
「おまえを産まなければよかった」
「産む予定はなかった」
「好きで産んだわけじゃない」
「実は男の子が欲しかった」
「どうせ何を着ても似合わない」
「生理になんかなっていやらしい」
「お前に食わせるものはない」
「食べさせているだけでありがたいと思え」
「どうせお前はだめだ」
「どうしてそんなに頭が悪いんだ」
「うちの子じゃない」
とか、言ったとする。


こうした言葉は、実際、言われた子供はとてもショックで、
人間不信の確信が形成されてしまうのだけれど、
言った本人は重大なことを言った意識はないことが多い。
ほんの短い一言である。


実際、10年か20年して、あの一言はひどかった、
と抗議を申し入れても、
そんなのは被害妄想だ、言った覚えはない、
言ったとしても、状況が問題だ、売り言葉に買い言葉ということもある、
何かの弾みで言ったんだろう、
そこだけ切り取って覚えているのか、
とにかく親というものは心底そんなことを思うものではない、
親の心が信じられないのか、
第一、そんなことを20年もたって覚えていて根に持っているなんて、
そのことがおかしい、などと言われて、
むしろ、抗議した人間のおかしさの証拠にされてしまうほどだ。


そして、決定的に傷つく。


このあたりの事情を推定すると、
普段からの交流の中で、
うっすらと、あまり尊重されていないことが感じられている。
しかし、相手の機嫌が悪いこともあるのだから、
自分のせいではないのだと思い直して、解釈を変更している。
つまり、自分に内在する問題ではないと、解釈し直している。


しかしあるとき、そのような解釈のし直しも限界に達して、
やはり疑いようもなく、相手はわたしのことが嫌いなのだと考えざるを得なくなる。
相手が親で言われる方が子供であれば、被害は甚大である。
夫婦でも、会社の上司部下でも、程度の差はあっても、似たようなものだろう。


そう思ってみると、これまで解釈し直して、気にしないようにしていたものが、
すべて、人間不信を確信させる証拠として、証言を始める。
どうしてもそう考えざるを得ない。
わたしは歓迎されていない。
わたしは邪魔者だ。
消えた方がいい。


その思いを抱いたままですごしているうちに、
ついに、相手に打ち明ける。
つらかったのだから、否定して欲しい、
そんな、すがるような最後の希望である。


しかし言われた方は鈍感だから、気がつかない。
そんなことをいうなんて、どうかしている、
いつまでも覚えている方がおかしいと、全否定されてしまう。


ここに至って、人間不信が確定される。


人間不信を抱く人間が異常なのだと断定される。
すると、あとの道は、
現在言われる通りに、自分が異常に根に持つ被害妄想的な人間であることを受け入れる、
または、
昔言われたとおりに、自分は生きる意味もない人間であることを受け入れる、
または、
相手を全面否定して、絶縁する、
そのくらいしか、選択肢はなくなる。


オセロゲームのように、一瞬で、全部が真っ黒になってしまう。


すべての思い出は
人間不信に回収される。


そのようなタイプの泣き面に蜂も人生には確かにある。


夢野久作「ドグラ・マグラ」に、


胎児よ胎児 何故泣くか
母の心がわかって おそろしいのか


といった意味の言葉がある。