印象派の風景画を見る。
その脇に、風景画の元になった風景写真を添えてある。
風景写真は、何の特徴もないほどの、普通の風景写真である。
その風景に向かってゴッホが絵を描けば、
絵画の歴史を作る絵が生まれるのだった。
そこに描き出されているものは、
樹の樹らしさであり、
同時に、ゴッホのゴッホらしさである。
同時にというところが、わたしには深遠な謎に思える。
樹の本質という内容を、
ゴッホらしさという形式で表現したともいえるだろう。
そうすると、ゴッホらしさを限りなく透明にして、
ただ樹の本質だけが残るような、一種の純粋極限芸術を構想することが出来るだろう。
いかにして可能か。
それは結局、一枚の写真に還元されるのだろうか。
樹の樹らしさは、
二次元上に展開される、
形と色でしかない。
そこには現実の山はないし机はない、
ただ絵の具があるだけだ。
二次元的な色の集合である。
それなのに何故そこには樹の樹らしさが現れ、
ゴッホのゴッホらしさが現れるのか。
風景写真を、ゴッホ的変換装置を通過させると、ゴッホの絵になる。
日常の体験を、大江健三郎的変換装置を通過させると、大江の小説になる。
絵も小説も、脳のある部分に対してフォーカスする刺激になっている。
そのフォーカスする部分に神経細胞があれば感動するし、
なければ感動しない。
そしてそうした細胞を多くの人が持っていれば、
普遍性を獲得する。
そして脳は変化する。
ゴッホの絵が現代で多くの人を感動させるように、
大江の小説は次の時代の人々を感動させるだろう。