上流、中流というのは、ずっと聞いて育ってきたが、
下流というのは近頃言われているのだと思う。
上流という言葉があれば、
中流よりも先に、下流が存在するはずなのに、
あまり聞いたことがなかったのはどうしてなのだろう。
貧乏とか貧民、賎民とかいうけれど、下流とは聞かなかった。
庶民は中流、上流は品格はあっても金はない、
そんな時代が敗戦後しばらくあったのだろうか。
下流を認めない、それは政治と倫理の敗北だと
マスコミも考えたのではないか。
したがって、下流という言葉が抹殺されていた。
およそ、政治があり倫理があり教育のあるところ、
経過としての貧困はあっても、
下流などというものは存在しないのだ。
全員が中流である。
いい時代だった。
三丁目の夕陽で、となりには星一徹と星飛雄馬が住んでいた。
それがリバタリアンが公然と発言するようになって、
潜在していた「下流」という言葉が言われ始めたのではないか。
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単純に、川でイメージする。
何かいいものが流れてきたとする、
それを拾って得をするのは、上流の人だ。
下流の人は待っていてもなにもいいものは流れてこない。
逆に、上流の人は、川で洗濯もするし、いろいろなものを捨てる。
下流の人はそれをよけながら暮らす。
下流の人は海に近いから魚を取るにはいいのかもしれない。
でも、それくらいだ。
桃太郎の桃が川から流れてきて、
それを見つけたおばあさんは、多分上流に住んでいたはずだ。
そうでなければ、中流のおばあさんが見つけたはずだ。
下流で見つけられるものは、ごみだけである。
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ひどすぎるかな。
下流と言っても、めったに餓死しない、凍え死ぬこともない、熱中症で死ぬこともない、
米国に押し付けられた無駄な教育だけれど一応公教育もある、
テレビも見られるし、コマーシャルを歌うこともできる、
スーパーに行って、入場を断られることもない、
ユニクロに行けば何か買える、
たまに死ぬけど自動車に乗ることも自転車に乗ることもできる、
(交通事故死はだんだん減ってきて、自殺者よりずっと少ないと言われたりして、
そのくらいなら死んでもいいってことでしょうか?と噛みつきたくなるのだが)
なによりどんなに威張っていても、120歳まで生きられる人は一人もいない、
なかなか公平な社会ではないか。
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でも、今日、あるホテルのあるひと隅に、小さなテレビがおいてあって、
わたしが通り過ぎたときには、
最近よくある、複数タレントのおしゃべりが映っていて、
声は出ていないけれど、それがまた実に、
格差社会を実感させる瞬間だった。