擬似母息子夫婦

愛とか絆とか信頼とか

人間の間にあるよい関係というものは、

実は、親子関係を鋳型にしているように思えてならない。

夫婦関係は親子関係とは全く違うもので、

夫婦関係をうまく築いている人も多いものだが、

半分くらいは、

親子関係の鋳型の中にまぎれこませて、

擬似息子、擬似母親を演じ、それでしっくりいっているのではないか。

親子を鋳型にしない夫婦関係は実は難しい。

狩猟型民族と違うところだが、

農耕民族で、農耕地の開拓が一段落した日本では、

男が土地に張り付いている。

相続するといえば、多くは土地のことだ。

男のあだ名として、地名を使うことも多い。

たとえば、「染井のだんな」。まるで本籍地を言われているみたいで、

ふざけたことができない。

そんな中では、ふらりと現れて、女の心を奪い、ふらりと去っていく男は、

あまりにひもじい。

ひもじいという言葉を使うなんてさもしいが、

実際、定住しないことには万事具合が悪い。

風呂に入ろうと思っても新橋では3万円もしてしまう。

狩猟型民族だと、男はふらりと現れて、ふらりと消えればいい。

平安貴族も、ふらりと好きになって、またふらりと行けばいい。

子供のために婚姻は整えるが、

そのあとはお構いなしだ。

子供をつくることだけが仕事なんだから。

そして一度でも関係があったら、一生、天皇の子だと言い張ればいいのだ。

狩猟民族も、平安貴族も、土地なんか女に任せればよかった。

しかし農耕民族は、土地と男が一体で、

生きていくために女は土地と結婚する。

したがって、兄が死んだとした場合、

嫁を追い出して、弟に新しい嫁を迎えるのではなく、

兄嫁と弟が結婚してしまう。

男の個性は関係なく、要するに、土地と結婚したのだ。

そうなると男もやる気がなくなる。

嫁としても、どうせいいとわかっているのだから、

義理の兄弟父と、交際を広げる。

遺伝子としてはそれでかまわないのだ。

早い者勝ちなのである。

こうなると、実際、男の魅力ではなくて、土地の魅力である。

男が死んでもかわりがいる。土地さえあれば。

そんな関係が、西欧風の夫婦になるはずはない。

土地の従属物となり、

妻の息子になってしまう。

はじめは母の息子で、つぎは妻の息子だから、

変身しなくていい。

成人しなくてすんでしまう。

アイデンティティの危機などというものも、

日本人男子には関係ない。

日本人男子は、

オリンピックでめったに活躍できない。

体も心も子供だからだ。

南米系でもアフリカ系でも黒人から見れば、

日本人は子供にしか見えないだろう。

だから、フランス人が男にほれるのと、

日本人が男にほれるのとは、かなり違う。

母性本能をくすぐるタイプがもてるとかいうが、

これは擬似母息子関係をさしている。

それはほれるというのとは違うのだけれど、

一応それでセックスもするのだから、

すごいものだ。

それでも、日本人の場合、夫婦になって後の、

セックスの頻度は諸国に比較して、

かなり低い。

やっぱりすぐに母息子になってしまうのである。

そんな風土で、

どのようにして夫婦でいるか、

皆さん悩んでいる。

自分が出来損ないなのだから、出来損ないしかパートナーになるはずはない。

だから、愛するとか言われても、わからない。

性欲はあるだろうが、著しくはない。

子供に知られない範囲である。

自分は立派な人間で、パートナーも立派な人間で、と

思っている人は、やはりおかしい。

反省という心の機能が弱まっているか、

ナルシスナル君か、

いずれにしても、立ち止まって考えた方がいい。

私たち、愛し合ってます、なんて聞くと、

もうそれ以上、深い話は聞きたくない。

キリスト教的でない、

仏教的というか、

はっきり言えば創価学会や立正佼成会、霊友会でもなんでもいいが、

夫婦はなぜ一緒にいるのか、

非キリスト教的にどう納得できるのか、

結局納得できないから、擬似母息子になってしまうのだと思う。