新聞で、学力低下について報告があり、
改善策について論じられている。
杉並の学校を使っての学習塾講師による授業など。
精神医学では、学力は論じない。
知能については重要で、先天性知能発達遅滞とか、
後天性知能低下などがあり、論じられる。
知能は学ぶ力と言ってもいいだろう。
学力は学んだ結果だろう。
人間は知能さえあれば、環境と興味に応じて学習し、知恵を高めていくものである。
学習の結果が問われるのは、
学習到達度を測定する発想があるからだ。
その先に、労働者としての適性という現実がある。
「学力」というものを測る基準があるなら、
それを目標にして反復学習すれば、点数はよくなるに決まっている。
ただし、むだがはるかに多くなる。
以前話題になった世界史履修問題にしても、
世界史で習わなかったから、中国や米国との戦争を知らないという人がいたとすれば、
それは学力の問題ではなくて、
知能の問題である。
日本語か英語が読めれば本を読むだろう、
そして図書館に行けば、
インターネットが使えれば、
テレビを見る機会があれば、
あるいは年長者の話を聞けば、
自然に理解するだろう。
学校で教えない理由も含めて。
アメリカの大学生はよく勉強するというけれど、
大半はむだな読書をして意味のないレポートを書いているだけだ。
英語は読みにくい言語だから。
日本の学生は自発的興味さえないようなので、多分それ以下であるが、
アメリカの学生にしても日本の学生にしても、
知能の高い学生はひとりで興味に従ってリサーチしている。
たとえば、円周率を3と教えるか、3.14と教えるかが、
分かりやすい問題として取り上げられているが、
3と教えられて、何も疑問を抱かないのは、知能が低いだけで、
その人に、3.14と教えてもどう教えても、むだというものだ。
そのような人にとっては、3も3.14も変わりがない。
知能はのばせるものでもないし、引き出せるものでもない。
また、逆に、抑圧できるものでもない。
学力は知能と環境との加算である。
学力の構造は簡単で、論理力と語学力が基本で、あとは読書量である。
論理力は、数学や論理学が純粋型で、各教科に顔を出す。理科はやや純粋論理に近い。
語学力は、先人や他人の意見を聞いたり、自分の意見を伝えたりするときの道具であり、
何より自分で考えるときの道具の片方であるから、大切。
論理力と語学力が両輪になる。
その他の、そろばんとか、歴史、地理、生物などは、本を読んだり、観察したりするだけでいいだろうから自分でできる。一斉授業したりして、できる人の邪魔をしないことだ。
純粋論理の面白いところは、国境がないことだ。イデオロギーが違っても、共通だ。
言葉が違っても、論理は共通している。
これが人間の根本に大切な能力なのだと分かる。
言語が違っても、深層にある言語構造は似通っている。従って、その部分も人間にとって大切なのだろうと思う。
それ以外は、日本に生まれたか、フィンランドに生まれたかの違いであり、
どちらにしても、ゆたかな文学資産があり、学ぶことで人生は豊かになる。
新聞で問題にしている学力は、
学ぶ力としての知能のことではない。知能こそが根本なのだけれど。
就職したあと、使い物にならないという、使う側にとって深刻な問題を解決しろという問題である。
これは知能に問題あり、学力に問題あり、性格に問題ありで、
複合的な問題だから、学校のカリキュラムをいじるだけで解決するものではない。
おおむね、知能に問題があるのに、努力不足で学力がないと責められると、
性格にも問題が生じ、結果として、知能、学力、性格、全般の問題になることが多い。
日本の産業が知識集約型になり、単純肉体労働が中国やタイに逃げているとすれば、
そうした産業構造に対応した人材の育成が求められるのだけれど、
日本に生まれても知能の低い人には無理だし、
結局、土木作業か、戦争か、そのあたりしかないだろう。
学力があっても、知能がなければ、ビジネスは無理だと思う。
知能がなくても学力があればいいのは、学校教師とか、共産党員とか、
最近では党公認を待つ自民党員とかだろう。
だから、日本がハイテク立国を目指すというのも、無理。
いまだって、優秀な人はアメリカに行ってしまう。
彼らは年をとってから日本に帰る。
日本は老人を大切にする暮らしやすい国だと感謝しているのだ。
かつて東京で仕事をして、引退して長野に帰る、みたいなことが、
ニューヨークで仕事をして、引退して東京に帰り、講演会で稼ぐスタイルになっている。
東京は長野の伊那谷の村になった。