司馬遼太郎「空海の風景」

空海については以前から興味があった

精神現象を理解するにあたって、
脳の機能不全からアプローチする方法と、
天才脳の機能からアプローチする方法が可能であると考えている。
空海は天才脳のひとつであろうと思っていた。
その点で興味があった。

司馬遼太郎は私の叔父が好んでいた。
そのうちの何冊かは、読むように勧められたこともあった。
しかしわたしは、小学生の頃勧められたシャーロックホームズも、
中学生の頃勧められた司馬遼太郎も、
つまらないとしか思えず、今日に至った。

今回は頭が回らないこともあり、
読みやすい感じもして、
司馬遼太郎の描く空海を読んでみた。

筆致は、「街道を行く」の感じで、地理をしるし、風景をしるし、
歩いている司馬遼太郎の呼吸をしるし、そのように進む。
それにしてもなんと博識なことか。
一冊の本を書くためにこれだけの準備をするものならば、
著作は実にたいへんな苦行に属する。
しかしながら、断片的な知識が総合され、
空海の心理を推理する段になれば、
報われた感覚にもなる。

真言密教の位置づけについてであるが、
私は門外漢ながら、
私にはやはりどうしても、仏教内の呪術部門としか見えないのだ。
いかに精緻な理論的背景を持とうとも、
すべてのインド哲学と同じく、現代の評価からすれば、
乏しい観察事実をかなりの空想で補った末の、
大部分が妄想である、そのような体系である。
空海の時代にはこのような要請もあったであろう。
祟りから逃れるために必要であっただろう。
しかしそれは古代の遺跡である。

さて、空海を当時の天才と認定するには充分な資料がある。
まず語学の天才であり、書、詩、文の天才である。

宗教的天才というべきか。
それについては、どうだろう。
司馬遼太郎が描くところによれば、
かなりの幸運に恵まれて、空海は密教の正式の跡継ぎになった。
私の見方からすれば、空海はこの幸運に縛られて一生を過ごしたとも言える。
彼ほどの人ならば、
密教など、効き目の不確かな呪術に過ぎないと
言い放っても良かったと思う。
それをしなかったのは、やはり彼も世俗人であり、
生きる打算があったのだろうと思う。

空海は入滅したのではなく、入定したのであり、
従って、係の人がいまでも、食事と着替えの世話をしているという。

空海ほどの人ならば、永遠の命など、人間にとって害あるものだと言いきってほしかった。
人間に完成はあるかといえば、
完成はない。
ただDNAの環境への適合性を、その一生の中で検証しているのみである。
永遠に生きる命は、
環境変化に対応することが難しくなり、
資源の浪費となる。
それよりは、DNAを拡散させる形で子孫を残しておいて、
その適応を試した方がいい。
環境は変化するからである。
そして正しいも正しくないもなく、
ただ環境に適しているかいないかがあるだけである。

司馬遼太郎は空海を描くにあたり、
もっと大げさにその天才ぶりや奇跡に彩られた人生を強調することもできたであろう。
それをしなかったのは、やはり、信仰の対象であるとの思いがあったのではないか。
穏やかな筆致に司馬遼太郎の大人の感性を感じる。