どこまで人を赦すか

どこまで人を赦すかは、難しい問題である。

長期的に見れば、
そして霊的にいえば、
聖書にいうように、
七の七十倍、赦すのがよい。
確かにそうだ。
復習の権利は神にのみある。

赦せないと怒っている暇があったら、
自らの罪について、悔い改めた方がいい。

罪の感受性のある人間なら、
怒るよりまず悔い改め、祈ることだ。
すべては罪びとである。

しかしそれだけでいいのか。
自分のことを侮辱する人間がいて、
その侮辱の被害は自分が受けていればそれでいいという場合なら、
やはり聖書に言う通り、
七の七十倍まで、赦そうではないか。

土台、そのように人を害するという人は、
罪についての感受性がないのだ。
もう仕方がないのだと思う。
耳の聞こえない人に怒鳴るようなもので、無駄というものだ。

しかし、AがBを侮辱していて、
自分はそれを証拠もない不当な侮辱だと知りうるCだとしたら、
どうするべきだろうか。
Aは罪の感受性のない愚かな者で、裁きは神に任せてもいい。
そこまでは同じだが、Bを保護することも、大切なことだと思う。
それが正義だ。
BがAに反撃したいと言うとすれば、
やはりわたしは聖書の原理で、Bを説得するだろう。
しかし、Cとして、Bのためかつ普遍的な正義のため、Bを保護し、Aを処断することは、
必要なことだし、正当なことだと思う。
それはリンチになってはいけない。私刑はいけない。
したがって、厳正な手続きが必要である。
Cにかなりの権力がある場合は特に慎重にしなければならない。
ただの一市民が他の一市民を攻撃するのならば、事柄として大きくはないが、
ある場合には、Aを社会的に葬り去ることもできるのである。
その場合に、正義の貫徹はどこまでが妥当なのか、
やはり悩む。
私憤は私憤である。赦せない感情は感情である。
しかし、CがAとBに対して、何をしていいのか、悪いのか、
慎重な議論が必要だろう。

そのことを前提として、
やはり、我々は、不当な侮辱に耐えているBを守る。
良くぞ耐えている。
よく耐えることは、神の前に立つ一人の罪びととして正しいし賞賛されるべきだ。
我々の模範である。
しかし私たち市民は、
Bを守るべきではないだろうか。
法律的な方法もあるし、それ以外の方法もある。
耳が聞こえない者に警告を発するには、
大声で怒鳴っているだけでは足りない。
法的な痛みが響かないものには、
別の痛みが必要なのだ。
確かに、慎重にしなければならない。
踏み外せば、幾多の暴君と同じである。
権力の過剰に我を忘れたと後世非難されるだろう。
しかしその点を公正に論じたうえで、
なお、行動しなければならないことがある。
正義はやはり正義である。
貫徹されるべきである。

抽象的にのみ語るのはもどかしい。
しかしこのもどかしさもまた、公正さの担保なのである。