一対一で接したときに見えてくる個性もある。
相手を集団の中の一人として、こちらは観察者として見たときに見えてくる個性もある。
病院で病棟を担当していると、
入院者はひとつの集団であり、その中でそれぞれの個性を発揮する。
看護集団にもひとつの力動があり、その中で個性を見せる。
事務、心理、その他コメディカルも同様である。
医者の集団も、他の立場から見れば、そのような、
集団としての動きと、その中での個性の発揮として見えているだろう。
とても単純に感想を述べるなら、
看護集団の中で、花嫁向きと思われる個性は存在し、
実際にそのような人が早く結婚し、一時退職するが、再び就職し、
後々まで幸せそうにしている様子を体験している。
なかにはこちらが仲人を引き受けた人もいるから、
なおさら、夫婦の内情については、
折節ごとに報告を受けている。
無論、精神科医などにプライベートなことを報告したらどんな診断をされるか
分かったものではないのだから、ある程度形式的なものであろうが、
それにしても、幸せになるだろうという予想は大体当たる。
また、そのような人しか、仲人は引き受けない。あとが面倒だ。
家庭生活に向かない人で、
職場に適応して、楽しく働いている人も、少数ではあるが、存在する。
ボランティアや地域活動などで活躍している。
少し淋しそうに。
女性も男性も、結婚しないで、「とても幸せ」というのは、これまでの日本では少し無難しかった。
これからどうなるかは老人には分からない。
こうしてみてくると、
看護学校を卒業して、新卒看護師として仕事をはじめたときに、
大体の将来の見当はついてしまう。
これを考えてみれば、神様はかなり不公平ではないかと思う。
無論、100パーセントではない。
美貌ゆえに不幸になる例あり、
共感性豊かなゆえに苦労する例あり、
全く偶然の出会いがありうべき人生を消去してしまった例もあり。
いろいろではある。
精神科の医師をしていると、
デイケアにかかわる。
それは治療場面であるが、生活場面でもある。
たとえば共同で調理をして食事して、片付ける。
そのときに、ある人の、調理の能力、人をまとめる能力、人と人とを調整する能力、
人を育てる能力、人を叱る能力、そういったものが総合的に展開される場面を見る。
そしてその中に、将来の妻として母としての姿を見ることができる。
そのことは二十年たって実際に外れていなかったと実感できるのである。
几帳面だったり、寛大だったり、臆病だったり、自分勝手だったり、いろいろである。
集団でゲームをしているとき、
母親的配慮を発揮できる看護師がいる。
そしてその人は十年後、見事な母親になっている。
これは一種の決定論的な感覚で、
精神科医の悪い癖であるが、しかし、
実際そうだから仕方がない。
だから、縁談を頼まれて、釣り書きを見れば、多分あの人がいいだろうと思い浮かぶものなのだ。
結婚というものは、本来、男と女、個人と個人の関係だから、
集団の中での個性の観察がどのように役立つかといえば、
本当は役立たないはずのものかもしれない。
割れ鍋にとじぶたで、ちょうどいいと思うのは、やはり個人と個人の出会いであるはずだ。
そのことを大いに肯定した上で、しかしそれでも、
うまくいっている夫婦の、主に女性側の資質は、
集団の中の個性として、見えるものだと思う。
学校の先生などはなおさら強くそのことを感じているのではないかと思う。
看護師集団は年齢に幅があり、しかも仕事であるから、
学校のように、年齢が同じで、しかも生徒という立場とは異なるから、
上記のような観察があるかどうかは分からないが、
多分、大雑把には、いい家庭をつくりそうな人と、そうでない人とが、見えているのだろうと思う。
それは学科の成績などよりも遥かに大切な幸せの要件となる。
あからさまに言わないのがよいだろうし、
そんな方向の塾などないほうがよいに決まっている。