「イワシの頭も信心から」に含まれる教え

「イワシの頭も信心から」
という言葉がある。
「いわしのあたまもしんじんから」または「いわしのかしらも……」とも読む。

冬が終わって新しい春を迎える節分にあたり、
鰯(いわし)の頭を柊(ひいらぎ)の小枝に刺して、
戸口に挿す風習が行われた。
鬼は柊のトゲと鰯の臭いが嫌いというので、
これを玄関において、鬼を退散させる。
鬼は外である。

鬼というものは何者であり、何が好きかきらいか、
そんなことは実証的な話ではないから、
どう考えたとしても仕方がないが、
庶民とはそういうものだ。

つまらない信仰という程度の意味で、
場合によっては、「気の持ちよう」「病は気から」といった、
ほとんど誤用の意味合いで用いられる場合もある。

つまり、変なものをありがたがって、困った奴、なんていう意味なのだろう。

医者の仕事も信心という意味合いがかなりある。
学術的に正しいけれど、患者は全く安心しない、というタイプの医者と、
学術的にはプラセボに近いけれど、とにかく安心して、任せられる医者とがいるのは
現実である。

偽薬がかなり効くのだという事実は無視できない。
小麦粉でもかなり効く。

すべての患者を安心させられるということもなくて、
あるタイプの患者さんにはあるタイプのお医者さんがいいというだけのことだ。

医者でなくても、どうせ買うならあの営業の人に発注してあげたいと思わせる
営業マンがいるものだ。
ポイントはそこである。

あるお医者さんが、「眠れないんです」という訴えを聞いていた。
前のお医者さんが出してくれた薬はこれで……、
実はこんな悩みがあって……、
と一通り聞いて、少しだけお話をして、
前のお医者さんが出した薬と同じ薬を出す。
しかしメーカー違いで、名前が違うから、患者さんは、違う薬だと思う。
昔はジェネリックなどという言い方はしなかった。
ベンザリンをネルボンに置き換えただけで、
化学物質としては全く同じということになる。

そして一週間後、患者さんはすっきりした顔で現れ、
「先生、あの薬いいです、よく効きました」と言う。

あとで先生はこのからくりを学生に説明する。
何が患者を癒したのか、を教育していた。

患者さんは、薬を飲むたびに、
あの先生に守ってもらっている、
あの先生のあの言葉を思い出そう、
と思える。

移行対象と言える面もある。
お母さんの温かさの替わりのぬいぐるみ。
お医者さんの言葉の替わりの薬。

これを「いわしの頭も信心から」と言って軽蔑するのも勝手だが、
人間が何かを悩むということ、何かに癒されるということは、
そういうことなのだという知恵を
汲み取ることも可能である。
同じ薬なのに、こんなにも効果が違うのはどうしてか。

先生はまた、
同じ薬を出していても、
効き始めるまで時間がかかるということもあるから、
前医が無駄だったわけではない、
ここに来るまでには、その先生も必要だったのだと
説明もした。

新興宗教や占いの人たちも、この面では実に深く研究を重ねている。
医者よりも、よく治す人たちもいる。
参考にして、謙虚に学びたいものだ。

オーラの人たちを軽蔑する一方で、
学ぶべき点がないか、考えてみたいものだ。
学ぶべき点が大いに、ある。

もちろんだが、いまどきのいい医者は、
まず生活習慣指導と食事指導である。