「他人と違う自分」と「みんなと同じ自分」に引き裂かれるこころ

昔、日本人は、みんなと同じなら安心といわれていた。
KY(空気が読めない)はだめといわれた。
今でも、レベルの低い人たちはそんなことをいうらしい。

今も昔も、欧米では、「他人と違う自分」が意義のあることだ。
違う意見があり、違う感性があるから、存在意義がある。
日本の高レベル若者はこんな風だ。

しかし、日本の高レベル若者たちは、日本で生活するとなると、
昔からの日本流と、昔と今の欧米流をブレンドしないといけない。
ところがブレンドは今のところ、うまくいかない。
みんなと同じでも物足りないし、
みんなと違っても落ち着かない、
そのような矛盾が続いているのではないか。

みんなとほとんど同じで、ちょっとだけ優越している、
そんな微妙なあたりを狙っているらしい。
低レベルの人には同じに見えて、
高レベルの人には違いが分かる、
低レベルの人にひがまれないで、
高レベルの人に尊敬される、
そのあたりが目標だろう。

しかし、「みんなは多分このへん」と思っていたことが、
ある日急に裏切られたりして、あわてるのだろう。

たとえば、たらこキューピーのキーホルダーをどのタイミングでかばんにつけるか、
どのタイミングで、はずすか。
わたしはわたしなんだからと腹を決めることもできず、
どうでもいいことは目立たない程度でいいやと決めることもできない。

わたしは勉強、と決めて、勉強だけしていれば、
それが一番楽で、確実な将来戦略なんだけどな。
そのように決心はできませんか?

大学院に行って、職員になって、そのまま、いられるだけ、いる。
それだけの単純な方針。
頭がいいんだから、それが一番いい方針かも。

なにに向いているかといって、
勉強に向いているんだよ。