不幸を理解してもらうことが、

他人につらく当たる人がいたとして、
その人は不幸の中にいるのだろうと推定できる。

同情を求める人は、当然、
不幸の中にいるのだ。

しかし不幸を伝えること、
不幸を理解してもらうことが、
どの程度わがままなことなのか、測定が難しい。

ひとつの不幸を話して、他人を巻き込むことが、いいことなのだろうか?
あるいは神父に話すとして、
神父もかわいそうではないか。
どこまでの痛みを神父にお願いしていいものか。
無限に?
それはありえない。
それは新たな罪である。

ある程度のわがままは許されるし、
むしろ力にもなりたいと人は思うものだ。
しかし程度というものがあり、
どの程度が妥当であるのかは、
まことに判断しにくい。

神は答えず、
社会は時代と地域に制約されている。