青春の終り
という言葉がきれいだ
人生の終り
という言葉がいま徐々に形を現しつつある
ニュースで、
妻を介護していた夫が、
耐えかねて妻を殺害した事件について、
殺害は事実であるとしながらも、
執行猶予がついたように見かけた。
いまネットでざっと見ても見当たらないのでよく分からないが、
そのような晩年もあるということだ。
人生の終りをどう迎えるか、
誰にとっても、容易ではない。
青春の終りという言葉がきれいなのはどうしてだろう。
春のあけぼのの空が、次第に変化して、青空につながってゆく。
青春の光は終り、人生に接続する。
青春時代は、終わると分かりつつ、焦るのだけれど、それでもまだ余裕があるのだろう。
人生の終りは、もう余裕もないし、本当にもう何もないのだ。
どうしよう。
桜の季節にはよくそんなことを考える。
あと何回桜を見られるだろう。
また来年、本腰を入れて桜を鑑賞すればいいやと、思うだけで、
毎年が過ぎている。
思うだけの人とは、そんなものなのだろう。
まったく行動力のない、
へたれな人生である。