世の中にはゴーストライターもいて、
ゴースト翻訳者もいて、
商売の仕組みを聞いていると、
要するに人々がどんなにブランドに弱いか分かる。
著者の名前は、多分、三越の包み紙のようなものなのだろう。
その著者の名前を貸しているからには、
中身は保証しますという程度のしるしのようだ。
実際それで不都合はないわけだ。
ある種のグループの代表の記号である。
たとえば、西行の和歌といっても、
どうだか分からないはずで、
たかだか和歌である。
後世の人が捏造したものが混入して、そのまま固定してしまっても、
分からないかもしれない。
写本がいくつもあれば分かるけれど、
それでも、怪しさは消えない。
ゴーストライターは、それが商売だから、
あとで著作権を主張するのはルール違反だけれど、
少しだけ言いたくなることもあるらしい。
しかし、一度それで商売したわけだから、
二度商売しようとするのは、いけないことなのだそうだ。
考えてみれば、著作権というのも、
最近の話だ。
昔は書写しかなかったわけだし、
第一、文集が商売になるとか、そんなことはなかっただろうと思うが。
読む人が少なすぎただろう。
国家事業としての編纂はあっただろう。
その場合に、著作権などないだろう。
むしろ、採用された名誉のゆえに、何か献上したりしたのではないだろうか。
詩や文章が商売になるには、
それが理解できて、欲しがって、お金を支払う構造がなければならない。
マーケットの成立である。
その場合、低俗ゆえにマーケットが成立する場合もあり、
高尚ゆえにマーケットが成立する場合もある。
高尚な場合は、内容はよく分からないわけで、
そのとき、内容を保証するのがブランドである。
低俗なものは、ブランドによらず、実際にどの程度低俗であるかによる。
日本における漢文の場合、
低俗漢文の管理は、和文の場合よりも、きつかったようだ。
女性に見せてはならないし、知られてはならない。
しかしもちろん女性たちは知っていて、
そこから日本式文学を発想もした。
漢文低俗文学に親しんでいる男性の一部にとっては、
和文の低俗文学は、多分、つまらなかっただろう。
そしてその後は、主に難しくて、一般には普及せず、消えていったのではないか。
バッハの音楽も、もとの讃美歌があったり、もとのメロディがあったりするらしい。
ゴーストライターと最終仕上げ者の関係に似ている。