命を守るために不登校児になるという選択

私は学校に「行かない」
命を守るために不登校児になるという選択
    
 子供のいじめ、不登校、自殺……。解決する方法は簡単。学校に行かなければいいのだ。自分の命を救うために、学校に行かないという選択が必要だ。

 私は18歳。学校へは行っていない。中卒だ。高等学校卒業程度認定試験(高認、昔の大検)を取得して、来年度は大学入学を目指して勉強を始める。

 持病がある。

 うつ病で、通院し、薬を飲んでいる。文学と哲学が好きだ。フリーライターとクリエイターの修行を積んで、今、初めて市民記者の記事を書いている。

 今の私があるのは、無論、支えてくれた人々、「書く」こと、そして、あの戻りたくない学校生活。どうやら学校の不登校については、大人から見た記事ばかりで、誤解のある部分が多いように見える。ここで私の経験を語っておくのも、悪くないだろうと思い、寄稿することにした。

 以下は、私が生身で体験した事実である。

いつしか「死にたい」と思うようになっていった

 「学校に行きたくないと泣きじゃくる娘」を見て、「あっ、これは私のことだ」と思い当たった。

いやだったら「行かない」という選択肢もあるのだ
 私も、その娘さんと同じことをした記憶がある。そのとき、子供がどんな心持ちだったか、想像した方がいるだろうか。私の場合は、心がきりきり痛んで、頭がずんずん重くなって、気持ち悪いものがこみ上げてきた。おなかが痛くて、身体がこわばって、ただ、ひたすら思った。

 「学校がこわい」

 原因は、複雑すぎてわからない。一応、「いじめに始まる人間関係」と言っておこう。

 学校特有の同級生の過干渉や、「いや」と言えない風潮、固くこわばった学校の雰囲気、1人として友人のいないクラス。とてもここでは説明しきれない。

 いつしか私は風邪を頻繁にひくようになり、寝こむようになり、身体からぼろぼろと崩れていった。抑うつ状態が続き、「死にたい」と思うようになっていった。

 小学生の子供が「死にたい」と念じる世界。なんて殺伐とした世界だろう。もう何も信じられなかった。そして心を閉ざした。

 小学6年生のとき、保健室登校を経験した。

 同級生の一部からは、「なんで教室に来ないんだ。死ね」という手紙をもらい、「心の問題なんだから、もっと強くなれ。人格を変えてでも(教室に)来い」と言われた。これは誹謗中傷である。

 ただ、教室まで行かないというだけで、まるで人格否定の扱いだ。

 おかしい、何かがおかしいぞ。この場所は、この学校は。

 この件で、結局私は同級生に殴り込みをかけた。そしてそのまま卒業して、私の保健室登校はなかったような出来事になった。

 不登校が決定的になったのは、中学校2年生のとき(その前も何度かあったが)。風邪をひいたのを口実に休みつづけて、両親に問いただされ、ついに、「学校には行かない」と言った。

 両親は途方に暮れたことだろう。ここで、私の両親をとやかく言う人がいたら、その人は何もわかっていない。両親は私をなだめたりすかしたり、泣いたり怒ったりして、学校に行かせようと頑張ってきた。

 そもそも世の親にとって、「子供は学校に行くもの」と決まっている。ほかの選択肢がない時代に生きてきたのだ。しかし、両親は努力し、勉強し、最終的に私を受け入れた。ずっとサポートしてくれた。彼らが一緒にいて励ましてくれなかったら、私はここにいない。感謝している。

 不登校予備軍の子供たちは、苦しんでいる。学校に行くのが嫌で嫌で、全身で嫌悪感を感じながら、なおも行くことを強制されている。

 義務教育だから? 心をきたえるため? 社会に順応するため? しかし、それには子供の意思がまったく反映されてないではないか。

 限界まで我慢して学校に行った結果、私は自律神経と精神を病み、入院・通院に投薬をやむなくされた。理由は自明である。学校が強烈なストレスだったからだ。過度のストレスで、サーモグラフィーをとったら手先、足先が真っ青だった。自律神経がやられたということだ。その後、精神病院に1年入院し、「死にたい」と思わなくなるまでに3年かかった。

生きていてくれればそれでいい

 世の中のほとんどの人は「学校に行かなければいけない」という偏見を持っている。子供も、大人も、学校に行かなければならないと思い込んでいる。しかし、それは命をかけてでも守らなければならないことだろうか。

 子供を病ませ、死なせる……。ある人にとって、学校はおかしい環境である。

 学力低下のデータから、肝心の「ものを教える機関」としての役割が減っていることは明白だし、あの箱のような形状の中で培われる人間関係が、幼稚な残虐性をともなった「いじめ」の温床となっているのもまた、数々の「いじめ」の事例からわかる。

 とはいえ、こうして糾弾したところでどうにもならないのかもしれない。実際どうすればいいのか……。

別の世界もあるのだ

 逃げてもいい。つらかったら「つらい」って叫べばいい。いい子じゃなくてもいい。100点取れなくてもいい。生きていてくれればそれでいい。私はそう思う。

 学校でのいじめが理由で死んでいった子供たちは、学校に殉じて死んでいったようなものだ。もっと広い、受け入れてくれる別の世界があることを知らなかったのだろう。

 本を読むといい。インターネットをやればいい。別の学校のお友達に会うといい。自分が通っている学校だけが世界ではない。私はそれを文学を通して知った。

 もちろん、学校が好きな人は学校に行って楽しむといい。たいていの子供にとって、学校は友達がいるし、先生もいるし、楽しい。そこにある人間関係を楽しめるか、苦痛に思うか、それだけの違いなのだ。

 学校に行かなくなると、社交的に出る機会がなくなってしまうことを恐れる人も多いだろう。しかし、しばらく休んで人恋しくなったら、フリースクールやボランティアサークルに参加してみればいいと私は思う。

 勉強は家でもできる。自分で勉強することが苦手な人は、フリースクールや塾などで、先生と一緒に勉強すればいい。それは必ず、あなたの人生を豊かにしてくれるはずだ。

 学校はもっと、フリースクールやカウンセラー、精神科医と連携をとるべきだ。学校の先生1人に責任を負わせるのは酷だ。1クラスに何人も不登校生がいる場合もある。だから、サポートを充実させるといいと思う。子供の神経は繊細で、傷つきやすく、うつ病予備軍になってしまうケースも少なくない。

 学校の保健体育の授業で、精神障害についての授業をすることも有効だ。精神障害はほかの先進国の例にもれず、日本でも身近な存在になっている。うつ病や躁(そう)うつ病、統合失調症について知っておいた上で、社会に出ても損はない。

 今からでも、いくらでもできることはあるのだ。

 私は声を持っている。書くことができる。社会に立つ、いち個人として、これからも、学校や子供たちの行く末を、見守っていくつもりだ。

 私は学校が嫌いだが、もっとも効率よく子供たちに学習させる機関が学校であることはたしかだ。それは今のところ変えようがない。しかし、繰り返したい。逃げてもいいのだ。ケンカをしたり、失敗したっていいのだ。嫌いなものとは仲良くしなくてもいい。距離をおけばいい。

 それが、大人になるということだと、私は思う。